2015年4月21日火曜日

敗戦70周年を迎えるにあたって:戦争責任の本質問題を考える


 
明仁の「慰霊の旅」

最近、天皇明仁によるパラオ島とペリリュー島への「慰霊の旅」がメディアで盛に報道され、戦没者に対する明仁の真摯な態度と慈悲深さが絶賛された。パラオに向けて旅発つ直前に明仁が発表したメッセージの中には、次のような言葉が含まれている。

「本年は戦後70に当たります。先の戦争では、太平洋の各地においても激しい戦闘が行われ、数知れぬ人命かが失われました。祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことかが深く偲ばれます。………
終戦の前年には、これらの地域で激しい戦闘が行われ、幾つもの島で日本軍が玉砕しまし
た。この度訪れるペリリュー島もその一つで、この戦いにおいて日本軍は約1万人、米軍は約1700人の戦死者を出しています。太平洋に浮かぶ美しい島々で、このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います。」(強調:田中)

ペリリュー島では、1944915日から1125日まで74日間にわたって文字通りの死闘が続いたわけであるが、最終的に「玉砕」を余儀なくされた日本軍側の戦死者は10,695名(このうち約3千名は朝鮮人労務者)、米軍の捕虜となった者202名、戦闘が終結した後も洞窟を転々と移動して生き延びた者が34名。これらの生き残り兵が米軍に投降したのは、なんと敗戦から2年半以上過ぎた1947421日のことであった。食糧・武器弾薬の補給が全くなく、ゲリラ戦法に依存するよりほかなかった日本軍に対して、米軍側がこの戦闘に投入した将兵数は48,740名。戦車117両、火砲729門など重装備の米軍であったが、1,794名の死者と8千名以上の負傷者を出した。幸いにして島民は全員が戦闘開始前に強制退避させられていたため、現地住民には死傷者は一人もいなかった。この戦闘中、天皇裕仁は日本軍を鼓舞するため、隊長であった中川州男大佐に11回もの嘉賞(「お褒め」の言葉)を送っているのである。戦闘に勝目が全くないことは当初から分かっており、しかもその結果が98%という死亡率であったということは、この嘉賞は、「汝らは死んで朕につくせ」という命令を、間接的に「嘉賞」という形で幾度も繰り返し表現したに過ぎないのである。

あらためて説明するまでもないと思うが、ペリリュー島での戦闘だけが日本軍将兵に多くの死傷者を出す結果になったわけではない。19428月に始まるガダルカナル島での戦闘での12,660名の死者(そのうち8,600名が餓死・病死)や、合計157,646名という大量の兵員が送り込まれた東部ニューギニアでは、敗戦時の生存者はわずか10,724名。すなわち94%という高死亡率で、ここでもその多くが餓死・病死であった。1944年になると、日本が占領していた太平洋の島々に米軍が次々と攻撃をかけ北上する作戦を展開したため、ブーゲンビル、ポナペ、トラック、グアム、サイパンなど多くの島が攻撃目標となり、兵員だけではなく無数の民間人が犠牲者となったことも周知のところである。サイパンでは日本兵と在留民間日本人の合計55,000人以上が死亡したが、その多くが「自決者」であった。ペリリュー島での悲惨で無意味な「玉砕」作戦は、1945219日から始まり326日に終結した硫黄島での戦闘で繰り返され、さらに10万人の兵員死亡者のうえに10万人ほどの民間人の死者を巻き添えにした沖縄戦でも繰り返された。

熱帯地域で餓死・病死に追いやられ、なんとか生き延びても「玉砕」という自殺行為を強いられた、このような無数の兵たちを「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった」という麗句で表現することですませ、あの戦争は本当に「祖国を守る」ための戦争だったのか、何のための戦争だったのか、とりわけ、いったいその責任は誰にあったのかは一切問わないことに、私は怒りを覚える。彼ら「帰らぬ身となった」者たちは、はっきり言えば「犬死に」したのである。彼らの死は、「悲惨、無意味、一方的に殺戮された」結果の死、つまり小田実が主張した「難死」以外のなにものでもない。しかも「難死」させられた者は、これまた小田が的確に述べているように、国家によって見捨てられた「棄民」である。しばしば我々が耳にする天皇や政治家たちの言葉、「戦争犠牲者のうえに戦後の日本の繁栄がある」などというのは詭弁に過ぎない。彼らの「難死」は戦後の「繁栄」とはなんら関係のない、「犬死に」以外のなにものでもなかった。
明仁は妻同伴で、日本国内のみならず沖縄をはじめ太平洋の島々にまで足をのばし、「戦没者の霊を慰める」という「慰霊の旅」を続けており、明仁のみならず、明仁を見習う天皇家一族の「慈悲深さ」がメディアで絶賛され続けている。同時にほとんどの日本国民が、そうした報道をなんの疑問も感ぜず全面的に受け入れ、明仁と美智子を深く尊敬し、二人の仁慈行為をいたくありがたがっているのが現状である。「このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います」という明仁の言葉を真に実践し、「犬死に」させられた人間のことを記憶に留め、同じような歴史を繰り替えさないようにするために不可欠なことは、日本人は「なぜゆえに、このような悲しい歴史を歩まなければならなかったのか」、「そのような悲しい歴史を作り出した責任は誰にあるのか」という問いである。ところが、明仁の「ありがたいお言葉」には、「悲しい歴史」を作り出した「原因」と「責任」に関する言及は、どの「慰霊の旅」でも常に完全に抜け落ちている。最も重大な責任者であった彼の父親、裕仁の責任をうやむやにしたままの「慰霊の旅」は、結局は父親の責任を曖昧にすることで、国家の責任をも曖昧にしているのである。つまり、換言すれば、明仁と美智子の「慰霊の旅」は、裕仁と日本政府の「無責任」を隠蔽する政治的パフォーマンスなのであるが、この本質を指摘するメディア報道は文字通り皆無である。それどころか、日本国家には戦争責任があるという明確な意見を持っている進歩的知識人と呼ばれる者たちの中にさえ、こと明仁の「慰霊の旅」については、この本質を見落とし、明仁尊敬の念を表明する人間が少なくないことに、私は少なからぬ驚きを覚える。

明仁夫妻のこのパフォーマンスは、戦争責任を認めたくない日本政府、とりわけ現在の安倍晋三政権にとっては、きわめて都合がよいのである。なぜなら、このソフトなパフォーマンスで、安倍のハードな戦争責任否定言動が近隣諸国に及ぼしている悪影響を柔らげるという作用を多少なりとも果たしているからである。明仁自身は、もちろん、自分は真摯に「慰霊の旅」を続けており、政治的パフォーマンスなどはしていないと思っていることは間違いないであろう。しかし、本人の思いがどうであれ、この問題に関しては天皇の言動が政治的に利用されていることは明らかである。

ちなみに、天皇家一家による災害被害者への「お見舞い」と「復興の祈り」の旅でもまた、災害の原因については一切問わないことは、その最も典型的な例である「福島原発事故」の被災者への「お見舞い」を見ても明白である。つまり、彼らが原発事故被災者=政府に見捨てられた棄民を見舞い(「たいへんですね」、「頑張ってください」と声をかけるだけだが)、放射能除染作業を見学する(天皇が見学するそのことだけで除染作業に効果があるものと正当化されてしまう)ことで、原発事故に対する電力会社と日本政府の責任を曖昧にしてしまう。それは、天野恵一が自著『災後論』で的確に描写しているように、「責任を曖昧にし、国家(国策としての「原発」)の無責任を実感させなくさせるという『逆転』をつくりだすための政治的パフォーマンス」なのである。その意味では、「被災者見舞い」は「慰霊の旅」と根本的には同質のものであることを、我々は明確に認識しておく必要がある。

裕仁の戦争責任

アジア太平洋戦争で犯した重大な犯罪行為に対する裕仁の無責任さについては、私が執筆を担当し、広島の複数の反戦反核団体が共同で出したオバマ大統領宛書簡でもすでに解説しておいたが、もう一度ここで、そのことをさらに詳しく再確認しておきたい。
(なお、オバマ大統領宛書簡は下記アドレスからダウンロード可能:

裕仁の戦争無責任さは、1945815日に彼が読み上げた「終戦の詔勅」に最も明確に表されているので、長くなるが全文を下に引用する。なお、それに続く解説では、口語訳も付記しておく。

「朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所
曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス
加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル
而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ
斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ
若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム
宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ
爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ
御名御璽」

いくつかの重要な問題点を指摘しよう。

1) 「曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス」
(先に米英二国に対して宣戦した理由も、本来日本の自立と東アジア諸国の安定とを望み願う思いから出たものであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとから私の望むところではない。)

この文章から、裕仁にとっては、戦争の敵国は米英の2国(おそらくはこの2国に加わった豪州、カナダ、オランダなどの連合軍国も含むと思われるが)であり、国民党軍や中国共産党軍は全く念頭に置かれていない。すなわち、彼にとって戦争とは、1941128日(ハワイ現地時間で127日)の真珠湾攻撃から始まる、いわゆる「太平洋戦争」であり、それ以前の、1931918日の「満州事変」に始まる中国大陸での様々な戦闘行為と日本軍の残虐な戦争犯罪行為は、「戦争行為」という概念には入っていない。「戦争行為」とは考えられていないのであるから、「侵略戦争」ではありえないことになる。さらには、当時は欧米諸国の植民地ないしは信託統治領であったフィリッピン、インドネシアやシンガポールへの侵攻も、したがって、「他国の主権を排除して領土を侵す」侵略戦争とは考えられていないのである。それゆえ、15年という長い年月の間に戦争の犠牲者となったアジア各地の推定死亡者2千万人という被害者に対する配慮も、当然のことながら、彼の頭の中ではスッポリ抜け落ちている。それどころか、戦争は「東アジアの安定」をはかるために行った行為であると自己正当化したのである。

2) 「敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル 而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ 斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ」
敵は新たに残虐な爆弾<原爆>を使用して、しきりに無実の人々までをも殺傷しており、惨澹たる被害がどこまで及ぶのか全く予測できないまでに至った。 にもかかわらず、まだ戦争を継続するならば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、ひいては人類の文明をも破滅しかねないであろう。このようなことでは、私は一体どうやって多くの愛すべき国民を守り、代々の天皇の御霊に謝罪したら良いというのか。これこそが、私が日本国政府に対し 共同宣言を受諾するよう下命するに至った理由なのである。)
ここで裕仁は、戦争を終わらせなければならなかった(「敗戦」はもちろん「終戦」という言葉すら一回も使っておらず、共同宣言=ポツダム宣言の受諾という表現のみを使用)その理由を、原爆という恐るべき大量破壊兵器の出現のみに帰した。すなわち、ポツダム宣言受諾の理由を、アメリカの残虐行為のみのせいにしてしまい、「人類の文明」を守るためという崇高な理念に基づいて自分は戦争を終わらせるのだと主張したのである。かくして、自分が大元帥という最高指導者を務める日本帝国陸海軍が、アジア太平洋各地で、無謀で非人道的な戦闘行為を行うことを自軍の将兵に強制し、犬死にさせ、その結果、それらの日本軍将兵が多くの民間人の命を奪った事実を隠蔽してしまった。周知のように、アメリカは「原爆を使わなかったならば戦争は長引き、そのため、さらに数百万人という犠牲者が出たはずである」という原爆無差別大量殺戮の正当化のための神話を作り上げ、現在も、その神話が大多数のアメリカ人市民の間に深く広く且つ強く浸透している。しかし、実は、裕仁も、「終戦」を正当化するために、「原爆」を政治的に利用する上記のような「被害者神話」を作り上げ、これを国民に信じ込ませたのである。アメリカ市民同様、我々の頭もまた、この「原爆被害神話」に浸されきっているのである。
かくして戦争は、常に、戦争中はもちろん戦後においても、戦勝国にも敗戦国にも真実を偽らせる。その意味では、戦争被害を被るのは人間だけではなく、「真実」も「虚偽」という戦争被害に晒されるのが、戦争のもつ必然性であると言えよう。戦争は、どんな形で行われ、どんな形で終結されようとも、結局は反民主主義的な原理で貫かれるのである。なぜなら、「人を殺す」ということは、いかなる理由があるにせよ、民主主義的な行動ではありえないからだ。
それゆえ、裕仁の「謝罪」が、原爆殺戮の被害者を含む「愛すべき国民」にではなく、「代々の天皇の御霊」に向けられていたことも、我々は決して忘れてはならない。「愛すべき国民」に対して自分が責任があるなどとは彼が少しも考えていなかったことは、この文章から明らかである。
3)朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス」(私は、日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対しては遺憾の意を表せざるを得ない。)
ここでもまた裕仁は、「今回の戦争はアジアの解放のために行ったものであり、そのために終始協力してくれた同盟諸国に申し訳ない」と欺瞞に満ちた表現を使っている。残虐極まりない行為をアジア太平洋各地で犯した侵略戦争行為と占領支配行為を、「正義の戦争」であったという印象を与えることで隠蔽し、あたかも自発的、積極的に日本に協力した「同盟国」が数多くあったかのような虚偽の発言を堂々と行ったのである。

4) 「朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ」
(私は、ここに国としての形を維持し得れば、善良なあなたがた国民の真心を拠所として、常にあなたがた国民と共に過ごすことができる。)

「国体」という言葉を、現代語訳として、しばしば「国としての形」と表現することが多いようであるが、この表現が厳密には不十分であることは周知のところであろう。「国体」とは「国としての形」であると同時に、それを具体的に眼に見えるものとして表している「天皇の身体」のことを意味している。したがって、この文章は、正しくは「私が天皇として自分の身体を護持することができれば、私に忠義を誓い善良な国民であるお前たちの忠誠を拠所に、お前たちと共に生きていける」と述べているのである。裕仁が自分の身の安全と天皇制の護持が確証できるまで降伏を躊躇していたことは、今では周知のところである。そのために、なんとしても沖縄戦で勝利をあげた上で、降伏を「無条件」ではなく「条件付き」にしたかったわけである。この極めて個人的で身勝手な欲望のために、20万人以上の人間が沖縄で命を落とした。確実に敗けると分かっていた戦争の降伏を自己の命の確保のためにさらに後伸ばしにしたため、沖縄戦だけではなく、194586日、9日の原爆無差別大量殺戮と、その後も814日までほぼ毎日続いた日本本土の他の都市への空爆で多くの市民が「難死」させられた。このことの自覚もまた、彼の頭の中ではスッポリと抜け落ちている。

5) 「若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム」
(もしだれかが感情の高ぶりからむやみやたらに事件を起したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに時勢の成り行きを混乱させ、そのために進むべき正しい道を誤って世界の国々から信頼を失うようなことは、私が最も強く警戒するところである。)

15年という長年の間、アジア太平洋各地で「むやみやたらに事件を起こし」、「時勢の成り行きを混乱させ」、その結果、「進むべき正しい道を誤って」侵略戦争を起こし、「世界の国々から信頼を失う」行為を行った日本帝国陸海軍大元帥としての責任を棚上げにして、国民に向けて「自重せよ」などと破廉恥にもよく言えたものである。

以上見てきたように、この「詔勅」には、侵略戦争の責任、植民地支配の責任、自国の兵員と市民を「犬死に」させた責任、これら一切の責任が不問にされ、裕仁は自分の責任も国家責任も完全に無視しているのである。

しかし、裕仁は、「朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス」(私は時の巡り合せに逆らわず、堪えがたくまた忍びがたい思いを乗り越えて、未来永劫のために平和な世界を切り開こうと思うのである)と述べて、自分は実は「軍国主義者」などではなく、「平和主義者」なのだということを印象づけようとしている。こうして、一見、本来は自分が平和主義者であると見せかけながら、実は「神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ」(神の国である自国の不滅を確信し、責任は重くかつ復興への道のりは遠いことを覚悟し、総力を将来の建設に傾け)よと述べているように、敗戦によっても、日本が「神」である自分を国家元首に戴く「神州不滅の国」であることに変わりがないことを再確認している。その再確認の上に、日本社会を徹底的に破壊した自分の責任は棚に上げて、国民に対しては、「お前たちには、神の国の復興に努力する責任がある」と、一方的に要求しているのである。

この点をとらえて、小田実は実にみごとに「詔勅」の特徴を以下のように分析している。

『終戦詔勅』には歴史に切れ目を入れる意図はない。それどころか逆に『戦前日本』を強引に『戦後日本』へ結びつけようとする懸命の企てだった。ただ、この企てに不都合なことがひとつあって、それは、『戦前日本』が『軍事日本』『戦争日本』でもあれば、その頂点に立つ『昭和』天皇が『軍事天皇』『戦争天皇』であった事実だ。
ここでぜひとも必要なことは、天皇が『軍事天皇』『戦争天皇』から『平和天皇』に『転向』することだった。この場合、もっとも好都合な論理、倫理は、もともと天皇は平和愛好者の『平和天皇』であったのに、軍部の『軍国主義』どもに取り巻かれて心ならずも『軍事天皇』『戦争天皇』の道をいくぶんでもとらざるを得なかったというものだったろう。この論理、倫理のアメリカ合州国側内部における展開によって天皇は『戦犯訴追』を免れたのだが、戦後、しつこく行われて来たのが、この論理、倫理の展開だった。」
(小田実著『被災の思想 難死の思想』、強調:田中)

裕仁の戦後責任と天皇制

この無責任な「平和主義者」の裕仁は、戦後もしばしば無責任発言を行っている。例えば、19751031日、アメリカ訪問の旅を終えた裕仁と妻の香淳が行った記者会見で、記者の質問に答えて裕仁が述べている言葉の中に次のようなものがある。

中村康二(ザ・タイムズ):天皇陛下のホワイトハウスにおける「私が深く悲しみとするあの不幸な戦争」というご発言がございましたが、 このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味と解してよろしゅうございますか。また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか、おうかがいいたします。

裕仁:そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしてないで、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えができかねます。

秋信利彦(中国放送):天皇陛下におうかがい いたします。陛下は昭和22127日、原子爆弾で焼け野原になった広島市に行幸され、 「広島市の受けた災禍に対しては同情にたえない。われわれはこの犠牲をムダにすることなく、 平和日本を建設して世界平和に貢献しなければならない」と述べられ、以後昭和26年、46年とつごう三度広島にお越しになり、広島市民に親しくお見舞の言葉をかけておられるわけですが、戦争終結に当って、原子爆弾投下の事実を、陛下はどうお受け止めになりましたのでしょうか、おうかがいいたしたいと思います。

裕仁:原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾には思ってますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思ってます
                                 (強調:田中)

もはやあらためて解説する必要もないのであるが、無数の兵士たちを遠い異国の戦地に追いやり、彼らに「天皇陛下万歳」を叫ばせ悲惨で全く無意味な死に追いやることで彼らを「戦争被害者」にし、同時に、彼らに侵略地の無数の住民を一方的に殺戮させることで同じく悲惨で無意味な死をもたらす「戦争加害者」にさせた、言葉では表現不可能なほど重いその責任を、「言葉のアヤ」であり「文学問題」であるとトボケル、そのあまりにも無責任な発言を「犯罪行為」と呼ばなければ、いったいなんと表現したらよいであろうか。

さらに、「終戦の詔勅」では「帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ」(日本国民であって前線で戦死した者、公務にて殉職した者、 戦災に倒れた者、さらにはその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負ったり、災禍を被って家財職業を失った人々の再起については、私が深く心を痛めているところである)と述べた裕仁である。「我が身が引き裂かれる」ほど「深く心を痛めた」はずの裕仁が、様々な疾病と精神的トラウマにいまだ多くの被爆者が悩まされ続けていた30年後には、「戦争中だったので、しかたがなかった」の一言で済ませてしまう、この無責任さ。「お前たちは死んでもしかたがなかったのだ」という、「国民」を人間とも思わないこのガサツな精神は、戦時中に「汝らは朕のために玉砕して忠誠を示せ」と「臣民」を「犬死に」させた驕慢な精神と直結しているのである。この点において、裕仁の「歴史認識」においては「戦後」という時代は存在しない。

ところが、裕仁のこの発言に対して、多くの被爆者や国民が憤怒の声をあげ、裕仁を厳しく非難したというニュースは聞いていない。その息子である明仁が、父親の責任については一切不問にしながらペリリュー島に「慰霊の旅」に出たことに対し、その島の戦闘で兄を失った千葉県銚子市の丁子八重子(78)は「行ってくださるのだとうれしかった。南洋で散った人たちはとても喜ぶはず」と述べ、 ペリリュー島と並ぶ激戦地だった近くのアンガウル島(この島でも1,200人の日本兵が死亡)から生還した倉田洋二(88)もまた「亡くなった戦友も喜んでいると思う」と述べて、手放しで喜んでいる(『毎日新聞』201548日)。こと「天皇陛下」の言動に関しては、おしなべて、なぜ日本人はこうも無批判、没自我的に、すべて「慈愛の行動」として全面的に受け入れてしまうのであろうか。さらには、メディアが明仁へのインタヴューで、「父親の裕仁の戦争責任についてどう思うか」という内容の質問をしたという話も聞かない。父親の「戦争責任」について明仁に質問することは、暗黙のうちにタブーとされており、明仁夫妻の「慰霊の旅」をただありがたいと思って恐懼感激し、宮内庁と日本政府が提供する情報だけをそのまま報道するということで「良し」としているのであろう。情けないことには、新聞雑誌社にしろテレビ局にしろ、日本全国のメディアで、このタブーに挑戦しようという動きを見せるような報道組織は皆無である。

裕仁の責任問題は、個人的な人間性の問題であると同時に「天皇制」という制度的問題であることはあらためて述べるまでもないことである。しかし、今この「天皇制」について詳しく私見を述べている時間がないので、ここでは、竹内芳郎が自著『ポスト=モダンと天皇教の現在』で論じている中から、私が賛成する個所を引用することだけにとどめておくことにする。

「(天皇には)責任があるにもかかわらず天皇には責任をとる能力すらない……..  どんな重大時にたいしてもその責任をとる能力すら天皇個人から奪ってしまっている制度としての天皇制…….. それでいてその時々の権力がその名を使えばおのれの横暴を国民にたいして有無を言わさずおしつけることができるようになる制度としての天皇制 — そういう日本天皇制をこそ、このさいきれいさっぱりと廃棄してしまうことが必要なのです。……
あの犯罪的で無謀な戦争へと有無を言わさず全国民を強制した醜悪きわまる制度としての日本天皇制を、将来に禍根を残さぬためにきれいさっぱり廃棄するよう主張することこそ、マスコミの態度としてさえ論理必然的に出てくる態度であるはずです……… なにしろこの醜怪な制度があるかぎり、いつまで経っても日本人民は、内にあっては集団同調主義からくる権力への奴隷根性を棄てることができず、外にたいしては近隣諸民族への民族的責任を果たせない無責任民族だということになってしまうからです。」(強調:田中)

竹内が述べるように、本来なら、マスコミが「戦争責任問題」をとりあげる場合には、「天皇制」の問題を避けては通れないのが論理的必然性であるはずなのであるが、日本のマスコミはこぞって、あたかもその論理的必然性が全く必然ではないかのごとく完全に避けている。竹内はその原因を「集団同調主義からくる権力への奴隷根性」にあると主張したが、この「権力への奴隷根性」は、日本社会のあらゆるところであまた見られる現象である。最近の一例をあげれば、20141月にNHK 新会長に就任した籾井勝人は、就任会見で「慰安婦」問題に触れ、首相であり、自分を任命した安倍の考えを全面的に支持する発言を行ったのみならず、放送番組の内容についても、「政府が右ということを左というわけにはいかない」と、権力者安倍にすりよる発言を堂々と行い、そのような発言が間違っているという自覚さえないというありさま。その反面、NHK内部では自分の権力を乱用して、部下に圧力をかけ従属させることになんの問題意識ももたない。このような日本独自の集団同調主義を、竹内は「天皇教」と呼び、以下のように述べる。

「この集団同調主義は、あからさまな権力による威圧とは異質だとはいえ、にもかかわらずそれに劣らず、いなむしろそれ以上に、それに従わない異分子にたいしてはおそろしく苛酷な迫害暴力として働くということです。……….. 日本にひろくゆきわたっている『単一民族国家』意識、在日朝鮮人やアイヌなど少数民族へのひどい差別意識も、むろん同根ですが、戦後も天皇と天皇制とにたいしてだけは無類に強烈なタブー意識が充電されていて、これにたいする自由な発言には右翼だけではなくマスコミをはじめ社会全体から無言の圧力がかけられてしまう….のも、まさにこの集団同調主義のなせる業なのです。」(強調:田中)

この天皇教=集団同調主義を打ち崩すために我々がとるべき方向性として、竹内は次のように述べる。

「めざす方向性は、理不尽な集団的圧力に断乎抵抗できる個々人の自立と、それを支えかつ自己批判をも可能にする普遍的原理の内なる確立。これに失敗すれば、そして相変わらず独りよがりの路線を突っ走れば、こんどこそは破滅以外にはないかもしれません。」

竹内がこう述べたのは1988年末のことであったが、それから4半世紀以上を経た現在の日本は、竹内が恐れていた「破滅以外にはない」深い谷底に向けて、安倍晋三の先導で急速に滑り落ちていきつつある。

結論:安倍政権打倒の必要性

前述したように、「終戦の詔勅」には、侵略戦争の責任、植民地支配の責任、自国の兵員と市民を「犬死に」させた責任、これら一切の責任が不問にされている。戦後の日本市民が明確な戦争責任意識を国民共有的なものとし、ドイツが長年にわたって努力してきた「過去の克服」と同じような徹底した自己改革を行うことに完全に失敗した最も根本的な原因は、この「終戦の詔勅」と、それを発表することによって自分の重大な戦争責任を完全に棚上げしてしまったのみならず、最大の戦争加害者があたかも戦争被害者であったかのように大嘘でごまかしてしまった裕仁の無責任=天皇制の無責任にあると私は考えている。また同時に、「裕仁が本来は平和主義者で、実は軍指導層に政治的に利用されていただけの戦争被害者であった」という日米共同謀議によるデッチアゲをそのまま信じて、裕仁に欺瞞的に象徴される「戦争被害者」の表象を自分と一体化してとらえ、あたかも自分たちには「戦争加害責任」が一切ないかのように思い込むことで、結局は、自分たちを「戦争被害者」だけではなく「戦争加害者」になることにも追い込んだ国家の責任を明確に認識することに失敗した我々日本市民にも重大な責任がある。

安倍晋三が、日本の侵略戦争の責任と植民地支配の責任を否定することにやっきになっており、祖父である(アジア太平洋時代に満州国総務庁次長や東条内閣の商工大臣を務め、戦後はA級戦犯容疑者として逮捕された)岸信介にも自国の兵員と市民を「犬死に」させた責任の一端があったことに全く無自覚であることは、まさに安倍ならびに安倍を支える政治家や右翼活動家たちが「終戦の詔勅」の思想をそのまま継承し、「国家責任」とはいったい何か、「人権とは何か」といった最も根本的な原則を理解する能力を完全に欠いていることの証左に他ならない。したがって、「河野談話」、「村山談話」の否定、秘密保護法成立、沖縄米軍基地辺野古移転、教育委員会制度改悪、残業代ゼロ政策、労働派遣法改悪案、原発再稼働推進、そして今や集団的自衛権容認と憲法改悪の推進など、安倍政権が次々と導入している反民主主義性、基本的人権無視など政策の源泉は、「終戦の詔勅」にあるといっても決して過言ではないと私は考える。

戦後の日本の状況をここまで悪化させてきた原因は、それだけではない。原爆と大量の焼夷爆弾を使った無差別大量殺戮という由々しい「人道に対する罪」を犯した国家責任が問われることがなかった米国は、戦後も、朝鮮戦争、ベトナム戦争、アフガン戦争、イラク戦争などで繰り返し無差別爆撃を続け、世界各地で多くの市民を殺傷してきた。にもかかわらず、その犯罪性が追求されることがなく、したがってなんらの国家責任も問われないままこの70年を米国はおくってきた。そのような正義に反する戦争をするたびに、いつも「正義の戦争」であると主張してきた無責任国家である米国の支配に完全に従属し、独立国でありながら米国の植民地のごとく自立性と自律性を失った政策を70年間も続け、国民への真の責任を回避してきた日本政府の無責任さにも大きな原因がある。同時にまた、そのような状況に「断乎抵抗できる個々人の自立と、それを支えかつ自己批判をも可能にする普遍的原理の内なる確立」をしてこなかった我々市民自身の責任も、ここで再確認する必要がある。

戦後70年を経たいま、安倍政権を打倒し、日本を本当の意味で人道的、平和的な社会にするような方向にその進むべき進路を矯正するためには、もう一度、戦後の様々な問題の発生源である「終戦の詔勅」を厳しく再検討・批判し、いろいろな局面での日米両国の国家責任を詳しく問い直すことが、必要不可欠であると私は信じる。つまり「過去の克服」を国民的レベルで成功させない限り、安倍政権打倒は困難であり、日本社会の破滅を避けることもひじょうに難しいと私は考える。

そのために、今年の「86ヒロシマ平和へのつどい2015」では、84日から6日の3日間をかけて「検証:被爆・敗戦70年―日米戦争責任と安倍談話を問う―」という集会を開くことを提案し、計画中である。みなさんからの強い支援と協力をえて、この集会をぜひとも成功させ、安倍政権打倒の運動に少しでも貢献できれば幸いである。
(集会のプログラムについては、このブログでも紹介していますので、参照してください。)

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