2015年7月16日木曜日

ドイツからの報告(2)


79日(木曜日)お昼前に、知人の車でベルリンを離れ、北に2時間半ほど走りました。到着した所は、メクレンブルグ西ポメラニアと呼ばれる地域にある、湖の多いヴァイセンシーという場所の森の中にある知人の別荘。森に囲まれた湖畔に別荘があるというすばらしい所でした。東西ドイツ統一後、旧東ドイツ地域の不動産を西側の人間が安く買えた時期があったようで、私の知人も10ヘクタールという広い土地を持っています(旧東西ドイツ間では今もまだ経済格差がかなりあるような印象を受けました。)彼はここに野外彫刻美術館=「彫刻の森」を開設する計画をすすめていますが、果たしてうまくいくかどうか….。ここで一泊し、翌日10日(金曜日)朝、この知人の車でさらに1時間半ほど北に向かって走り、ギュストロという小さな城下町(人口28千人)まで送ってもらいました。

なぜこんな小さな田舎町にまで私がわざわざ足を延ばしたかというと、ここに、ナチスに迫害された反戦彫刻家エルンスト・バルラハ(1870~1938)の美術館と、かの有名な彼の彫刻「空中に浮かぶ天使」が展示されている教会Domがあるからです(バルラハならびに彼の作品「空中に浮かぶ天使」についての簡単な説明は、今年3月にこのブログに載せた私の「講演録」を参照して下さい)。バルラハの美術館は、ギュストロ郊外の森の中の、元々彼の自宅兼アトリエだった建物とそれに隣接する新しい建物からなる美術館と、街中の古い小さな元はチャペルであった建物を利用した美術館の2つがあります。小規模ながらかなり立派な中世のお城が町の中心部にあるとはいえ、町自体はとても小さくて、お城とバルラハの美術館の他にはほとんどなにも観光スポットといえるものはありません。私は丸1日この町に滞在しましたが、美術館も教会にもほとんど訪問者はおらず、街中も閑散としていました。1910年、40歳になったバルラハがなぜここに仕事場を置いたのか、勉強不足の私は知りませんが、静かな田舎町なので、仕事に専念するには理想的な場所だったことは確かです。

元アトリエには、ナチスによって取壊された「マクデブルグ戦没者記念碑」のマケット(彫刻の模型)など、彼の代表的な作品が数多く展示されています。この建物に隣接されている新しい、きわめて現代的な素晴らしいデザインの建物には、彫刻の他に、彼が数多く残したデッサン画や版画類が展示されています。バルラハの作品には、逞しい農民やそれとは対照的な悲しみに打ちひしがれた貧民など、庶民の喜怒哀楽をテーマとして表現したものが多いのですが、現在展示中の版画の中には彼が書いた戯曲の挿絵に使われた「魔女」を描いたものがたくさんありました。「魔女」とはいえ、バルラハの作品らしい、とても人間味溢れた愉快な「魔女」たちです。


元アトリエに展示されている彫刻作品
「空中に浮かぶ天使」は、天使の顔がケーテ・コルビッツの顔をモデルにしていることは一見して分かります。しかしながら、1200年代にまでその設立の起源をたどることができるこの古い中世スタイルの教会に、このような現代的な彫刻が展示されていることに、不思議なことに、なんら違和感を感じません。彫刻の真下の床には丸く切った大きな石(直径1.5メートルほど)が置かれており、その内側に「1914~1918」、外側に「1939~1945 IMGEDENKEN」と刻まれており、この彫刻が第1次世界大戦と第2次世界大戦を記憶するものであることが明示されています。写真でしか見たことのなかったこの「天使」を、実際に眼にすることができて感激でした。
『空中に浮かぶ天使』









『天使』の下に置かれた石板
その日はギュストロに一泊。翌日711(土曜日)早朝に、ギュストロを離れ、電車(各駅停車の列車しか走っていません)で西に2時間ほどかけて古い港町リューベック(現在人口は21万人ほどの小さな観光都市)に移動。歴史あるこの小さな都市は、中世から近代にかけてはハンザ同盟の貿易港として栄えたようです。運河に囲まれ古いレンガ造りの家並みが続く旧市街地は、美しい中世都市の雰囲気を現在も保っており、古い由緒ある教会が6つほどあります。

そのうちの一つであるキャサリーネン教会の正面の壁に設置する16人の「聖者」の彫刻の製作を、バルラハは依頼されました。ところが、1931~2年に3体を完成させた後で、彼はナチスに「退廃芸術家」と非難され、作品製作・展示を禁止されました。そのため、完成した3体も設置できなくなりました。その3体は「風の中の女」、「松葉杖をつく乞食」、「歌う尼僧」と題された彫刻です。通常、教会の建物内や外壁に設置される「聖者」は、広く世に知られた高僧たちですが、バルラハにとって「聖者」とは、名もないごく普通の人間であり、とくに身体障害者である「乞食」であったわけです。松葉杖をつくこの「乞食」の彫刻は、ギュストロの上記2つの美術館にも展示されている、バルラハの代表的な作品の一つです。幸いにしてこれら3体の「聖者」彫刻は破壊されなかったため、戦後1948年になってキャサリーネン教会の正面の壁に取付けられました。さらに、バルラハの弟子が戦後その仕事を受け継いだと聞いていますが、実際に私が見た限り、教会の壁にはバルラハ自身が製作した3体を含め、全部で9体しか設置されていません。当初の16体の「聖者」製作計画がなぜ今も完了されていないのか、もう少し調べてみないと私には分かりません。
バルラハ製作の聖者3体

キャサリーネン教会正面 外壁全景
  少し話がそれますが、リューベックは、トーマス・マンと彼の兄ハインリッヒ・マンという偉大な作家兄弟や、ヴィリー・ブラントという傑出した政治家を産み、最近亡くなった作家ギュンター・グラスが仕事場を置いていた街です。マン兄弟とブラントはナチスに抵抗し、グラスは78歳になった2006年になって自分がナチス武装親衛隊の隊員であったことを告白する自伝的作品玉ねぎの皮をむきながら』を発表して、大きな波紋を呼びました。なぜ北ドイツの伝統ある古い小さなこの港湾都市に、このように優れた知識人が産まれ育ったのか、あるいは生活の基盤を置いたのか、その歴史社会的な背景を知ることに興味が湧きます。こんな小さな都市からノーベル文学賞受賞者2人、ノーベル平和賞受賞者1人を出しています。とりわけ、少年期からリューベックで労働運動に関わって驚くべき文才を発揮し、強靭な社会主義思想に裏打ちされた政治哲学で、戦時中は反ナチス地下運動を、戦後は「過去の克服」と「東西和解」運動を一貫してすすめたヴィリー・ブラントが、リューベックでどのような幼少年期をおくったのかに、私はひじょうに興味があります。ブラントが首相になっていなければ、ドイツの「過去の克服」が、現在のような徹底したものにまでなっていたかどうかは疑問だと私は思っています。

712日(日曜)は、列車とバスを乗り継いで約1時間半、リューベックからさらに北にある海岸沿いの保養地、シーズマーという小さな町を訪れました。その目的は、訪問する約束を数ヶ月前からとっていた、ここに窯場を持つドイツ人の陶芸家、ヤン・コルビッツに会うためでした。「コルビッツ」という名前でお分かりのように、彼はかのケーテ・コルビッツともちろん関係があります。実は、ヤンはケーテのひ孫にあたる人です。ケーテにはハンツとペーターの2人の息子がいましたが、ペーターを第1次世界大戦でなくしたことは私の3月の講演でも説明した通りです。ヤンは、ハンツ(父親と同様に医者)の孫にあたります。ハンツの息子、すなわちヤンの父親も医者で、現在93歳の高齢ですが、すこぶる元気でベルリンに住んでいるとのこと。ヤンは今年55歳になりますが、まだ20歳代の1986~87年の2年間、私の生まれ故郷の福井の越前焼の窯場で修行しました。私は、当時はオーストラリアのアデレード大学で教えており、年に1回は日本に帰国し福井にも戻っていましたが、ヤンが福井にいたとはもちろん全く知りませんでした。ヤンは1988年からシーズマーに移り住み、ここに日本から陶芸用の窯を製作する専門家に来てもらって、「穴窯」を自宅の裏庭に設置。それ以来、ここで越前焼の作品製作に打ち込んでいます。

100年前に元々は修道院として建てられた大きな建物の2階が自宅、1階は自分の作品を展示するギャラリーと、大きな暖炉を備え日本の重厚な茶箪笥が置かれたすばらしい自宅食堂となっています。

彼の作品はどれも、典型的な越前焼の見事な色合をもったひじょうに美しいものばかりですが、私は、とりわけ大壺が素晴らしいできだと思いました。彼の作品は、今や、ヨーロッパやアメリカのギャラリーで高額で販売されており、ドイツ国内やアメリカの美術館にも納められています。残念ながら、高額のこんな大壺を購入してオーストラリアまで送る金銭的余裕は私にはとてもありませんので、小さな湯呑みを一つ買わせてもらいました(苦笑)。
ヤン・コルビッツのギャラリー

ヤン・コルビッツ作の大壺



  ヤンの顔はケーテの顔にひじょうに似ており、私がそのことを彼に言うと、「みなさんにそう言われます」と笑っていました。ヤンは若い頃は彫刻を作るのが好きで、一時期、彫刻家になろうかと真剣に考えたこともあるそうですが、ケーテと常に比較されるのは避けられないであろうという恐怖心から、全く違う陶芸の道を選んだとのこと。陶芸家になって本当に良かったと、実に幸せそうに笑っていました。そのヤンに聞いて初めて知ったのですが、ベルリンだけではなく、ケルンにも「ケーテ・コルヴィッツ美術館」があるそうで、実際には、ケルンの美術館のほうがベルリンのものより所蔵作品がずっと多く、建物も立派だそうです。なぜケルンにそれほど多くのケーテの作品が残されたのか、その理由をヤンに聞くのを忘れてしまいましたが、次回ドイツに来る機会があったら、ぜひともケルンにまで足を延ばしたいと思います。
食堂の壁に飾られているケーテ・コルビッツの自画像
日本茶とマーズパン(リューベック特産のお菓子)をご馳走になった食堂には、ケーテの自画像が飾られていました。裏庭の穴窯を見せてもらったり、コルビッツ家の歴史についていろいろな逸話を聞かせてもらったりして、3時間半余りお邪魔をして、本当に楽しいひと時を過ごさせてもらいました。

ケーテ・コルビッツの美意識が、ヤンというひ孫を通して、しかも越前焼という陶芸美の形をとって継承されていることに、とても不思議な気がすると同時に、しかしひじょうに嬉しい思いがしてなりません。芸術の深さと面白さをあらためて教えられた、収穫の多い旅となりました。
穴窯前のヤン・コルヴィッツと私

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