2015年11月10日火曜日

「招爆論」から「日米共犯招爆論」へ



 — 「天皇制原爆民主主義」成立の歴史的背景 —

I  
II 「加害と被害の二重構造」と「招爆論」
III「日米共犯招爆論」— 原爆無差別大量殺戮までの経緯
IV 「日米共犯招爆後論」— 「国体護持」をめぐる日米政府の駆け引き
V   結論 — 「天皇制原爆民主主義」成立の批判的分析の必要性
*注

I

今年初めに天野恵一氏から、『戦争責任と核廃絶』(1998年 三一書房)なる著書の中で、著者の岩松繁俊氏が「招爆論」と称する興味深い主張を唱えていることを教えていただいた。勉強不足の私は、この著書の存在については全く知らなかっただけではなく、実に恥ずかしながら岩松繁俊氏の経歴や出版物についても無知であった。その後、私は、いろいろと多忙であったことや、この著書の入手が遅れたことなどが理由で、つい最近になるまでこれを熟読する機会がなかった。

岩松氏は1928年に長崎に生まれ、4589日には、学徒動員による軍需工場での作業中に爆心地から1300メートル地点で被爆された。52年に東京商科大学(現在の一橋大学)を卒業され、その後長年、長崎大学経済学部で社会思想史(とくにバートランド・ラッセル思想)の専門家として教育と研究に携わられた。原水禁運動にも長年にわたって関わられ、97年には原水爆禁止日本国民会議の議長も務められている。社会科学者として、また反核活動家としても重要な貢献をされてこられた方で、今もご健在のはずである。

この著書を読んで驚いたのは、私自身がこれまで主張してきた「原爆被害・日本戦争犯罪の表裏一体性論」*とほとんど同じ論理を展開されていることである。
私自身は、自分のこの論理主張が被爆者の人たちにはなかなか受け入れがたいことは充分承知していたが、しかし、それでも自分の思考方法に誤りがあるとは決して思っていなかった。したがって、被爆者のお一人が私と同じ主張をすでに198090年の段階で展開されていたことを知り、驚いたと同時にひじょうに心強く感じ、嬉しい限りである。

それだけではなく、岩松氏は、後述するように「招爆論」(=日本側、とりわけ天皇裕仁に、米国による原爆攻撃を誘引した責任があるという論理)も展開されている。この「招爆論」については、私も基本的には賛成なのであるが、私自身の考えは、この理論だけでは不十分であって、それをさらに複合的なものにした、いわば「日米共犯招爆論」とも称せるものにまで発展させる必要があると考えている。この持論については詳しくIIIで説明する。

 II 「加害と被害の二重構造」と「招爆論」

まずは、岩松氏による「戦争被害と加害の二重構造」の明確な認識の必要性の主張について簡潔に紹介しておきたい。

岩松氏は、すでに「まえがき」で、日本における反核運動を真に力強いものにするには「日本の戦争犯罪の加害責任をはっきり組み込んだ反核運動を論理的に明確に構築しなければならない」と唱える。しかし、なぜゆえに当の被爆者たちが戦争被害者意識にだけ捉われがちで、戦争加害の問題にまで視野が広がらないのかという問題をまず第1章でとりあげる。その理由を、岩松氏は主として非被爆者の無理解に求める。戦後の占領期におけるプレスコードなどを使った米占領軍の原爆情報コントロールにより、非被爆者が被爆者の話も心情も理解できなかった」ゆえに、「聞いてもらえない体験をとおして、被爆者の心は徐々にはげしい怒りと焦燥にかわっていった」と説明。すなわち、しばしば「原爆のおそろしさは被爆したものでなければ絶対にわからない」という言葉を被爆者から聞くように、「怒りにふるえる被爆者の心は次第に閉ざされ、語ることを拒否する傾向さえうまれた」のだと。ゆえに、「被爆者を被害者意識の思考論理に閉じこめさせたものは、けっして単にかれらの視野の狭さだけではない。むしろ周囲の無理解がかれらに被爆体験=被害者意識の語り部としての責任感をかきたて、かたくななまでの視野固定を強制した」のだと岩松氏は分析する。さらには、被爆体験そのものが極めて深刻で且つあまりにも悲惨なものであったため、原爆無差別大量殺戮という重大犯罪事件を多様な「戦争体験のなかの一環」として把握することができなくなり、原爆体験以外の戦争被害体験を軽く考えるようになり、「原爆体験=戦争体験そのもの」という錯覚におちいる。その結果、被爆者たちは「自分たちは被害者であって、自分たちには決して戦争加害に対する責任はない」という狭隘な被害者意識にとらわれるのであると説明。被爆者としてのご自分の体験に基づくいわば自己分析的な解説なので、なかなか説得力がある。つまり、私自身の言葉で表現すれば、これは「原爆特殊論」で、被爆体験を他の戦争被害とは比較できない「極めて特殊な戦争被害」とみなしてしまうことで、他の戦争被害との共通性=普遍性との関連性が見えなくなってしまうということである。

被爆者に広く見られるこうした心理状況=被爆特殊視に対して、岩松氏は、しかしながら、朝鮮、中国をはじめとするアジア諸国への侵略という日本の加害行為の歴史の中で被爆体験を考えるべきであって、「その被害体験がどんなに表現を絶して過酷で残虐で、痛苦と屈辱に満ち、絶望と困窮を強いる苛烈な体験であろうとも」、被爆体験だけをそうした歴史のコンテキストから全く分離した形で考えるべきではないと論じる。そのような歴史不在の原爆被害観念、すなわち「加害責任の欠如した被爆体験」を、第5章「日本人の戦争責任にたいする自覚の薄弱さ」では、岩松氏は「歴史のない被爆体験」、「根のない被爆体験」、「戦争のない被爆体験」と厳しく批判する。実に厳しいがひじょうに適確な批判だと私も思う。「被爆特殊論」は、被爆体験の言語に絶する凄まじい残虐性一点に焦点を当てる傾向が強いため、原爆無差別大量殺戮という由々しい「人道に対する罪」がいかなる歴史的原因と背景から起きたのかという重要な問題を無視しがちであるという点で、確かに「歴史のない被爆体験」なのである。

同じく第5章では、岩松氏は、被爆者のみならず日本人一般の戦争加害意識の薄弱さについても批判し、日本人は「被害者として徹していないから、加害者としての自覚ができない」のであり、「被害者意識がたりないから、加害責任の自覚が生まれてこない」と主張。それゆえ「被害者としての立場をとことんまで追求してゆけば、ふたつの局面にぶっつからざるをえなくなる。ひとつは、他国の被害者との共通性の認識である。そしていまひとつは、いたましい被害者を生みだした加害者の存在への認識である」とも述べる。この論理に立って、岩松氏は、戦争加害責任意識を欠落させた「日本の民衆は完全な被害者、徹底した被害者ではなかった。広島・長崎の被爆者も、徹底した純粋被害者ではなかった」と、再びひじょうに厳しいが鋭い批判を展開する。「被害者としての意識が薄弱であるからこそ、加害者としての意識と認識も薄弱」という岩松氏の論調は、下記の私の論調とぴったり重なる。

「自分たちが他者=アジア人に対して犯したさまざまな残虐行為の犯罪性とそれに対する自己責任を明確にかつ徹底的に認識しないからこそ、他者=アメリカが自分たちに対して犯した同種の犯罪がもつ重要性も認識できない。他者=アメリカが自分たちに対して犯した残虐行為の犯罪性とその責任を徹底的に追及しないからこそ、自分たちが犯した犯罪の被害者=さまざまなアジア人の痛みとそれに対する責任の重大性にも想いが及ばない、という悪循環を多くの日本人が繰り返しています。」**
私の自身の言葉で再びその論旨を表現すれば、「戦争被害と加害の表裏一体性」を明確に認識できないのは、被害と加害の両方の共通根本要素である「普遍的な人道意識」を自己自身の確固たる思想として深く内面化していないからである、と言える。それはまた、逆説的に述べるなら、「普遍的な人道意識」を内面化できないのは、「被害と加害の表裏一体性」を明確に認識することに失敗しているからでもあると言える。「被害と加害の表裏一体性=相互関連性」を明確に認識するためには、私が常に主張しているように「過去の克服」が必要不可欠なのである。そして、「過去の克服」なしには「民主主義」を構築することもできないと私は確信している。

岩松氏は「過去の克服」という表現は全く使っていないが、氏の著書を一貫して流れている論理展開の基調は、まさに、日本の戦争犯罪という様々な残虐な加害行為と、日本人が痛ましい被害者にされた米国による原爆殺戮の両方を、いかに相互関連したものと認識し且ついかにその責任を同時に追及するかという「歴史克服問題意識」であると言ってよい。岩松氏はまた、そうした問題意識から、日本帝国主義・天皇制ファシズム体制における「日本民衆の加害・被害の二重構造」を重要視する。国外にあって侵略戦争を遂行した日本帝国主義・天皇制ファシズム体制に協力した日本民衆は、兵として侵略地で直接に残虐行為を犯した者はもちろん、そうでない一般民衆も、体制の一員として体制を支え協力した以上は加害にたいする「連帯責任」を負っていると考える。同時に、日本人、とりわけ徴兵され軍隊内で様々な虐待を受け、戦地に送られ死んでいった下級軍人は戦争被害者でもあったという、この「二重構造」を重要視し、「加害者なき被害者はありえない」と喝破する。そのような下級軍人が受けた「戦争被害」の最も典型的な一例として、戦地における餓死と、餓死寸前という極限状況で人肉食をせざるをえなくなるまで追い込まれ兵たちの状況を岩松氏は例証する。

まさにこの「日本軍人肉食」問題でも、私自身の問題意識とぴったりと重なっていることに再び驚かざるをえない。残念ながら、岩松氏は、日本軍人肉食問題を分析した論考を含む拙著『知られざる戦争犯罪』の存在をご存知なかったようで、この部分での氏の議論の展開のためには、もっぱら千田夏光著『死肉兵の告白』(汐文社 1980年)を参考文献として使用している。(千田氏のこの著書は、主として元日本兵からの聴き取り調査をもとにしており、連合軍側が作成した軍関連報告書を情報源として執筆した私の論考とは少々視点は異なっている。なお、「人肉食」に関する拙論をめぐる最近の動きについては、当ブログ91日に載せた「アンジェリーナジョリー監督製作映画と人肉食問題: 争のと民主主義を考える」を参照されたし。)


そのような「二重構造」を本質的な性格として内在させていた天皇制ファシズム体制の頂点にあった天皇裕仁は、「軍部からの偏見と欺瞞にみちた上奏を偏見・欺瞞と気づかず、戦略的状況を的確に把握できず、いたずらに戦争継続と戦闘勝利に固執した」と、岩松氏は裕仁の戦争責任を問う。裕仁は、沖縄戦という不必要な戦闘を3ヶ月あまりも行うことで多くの沖縄市民と日米双方の将兵に犠牲を強いた上に、最終的には「二個の原爆によって、朝鮮人・中国人・戦争捕虜をふくむ二都市の市民が無差別に虐殺」されるという状況を生み出した。つまり、裕仁は「民衆の犠牲を配慮せず、ただ国体護持=天皇制存続にこだわりつづけたために、アメリカの作戦にはまり、原爆投下を招いた」と、岩松氏は裕仁個人ならびに天皇制の責任を「招爆論」という論理で徹底追及する。ポツダム宣言を速やかに受け入れ、戦争をもっと早く終わらせていれば原爆無差別大量殺戮は避けることができたのであり、したがって、「天皇制は招爆責任の究極的責任主体であった」と結論づけている。(なお、「招爆責任」という表現は、岩松氏の造語ではなく、もともとは長崎の龍田紘一郎弁護士の発案によるものであるとのこと。)

原爆無差別大量殺戮という重大な「人道に対する罪」をアメリカが犯すような状況を作り出したという点で、確かに「招爆責任」が裕仁=天皇制にあったと私も疑わない。しかしながら、原爆使用決定に至る経緯はかなり複雑で、その経緯を詳しく分析してみると、トルーマン大統領ならびに当時の米国政府の重鎮たちが、裕仁にそのような「招爆」状況を作らせるように画策したという事実があることも明らかとなる。したがって、歴史的事実に即すれば、裕仁の「招爆責任」とトルーマンの「招爆画策責任」の両方を複眼的に論じる、「日米共犯招爆論」と称すべき論理のほうが、より正確だと私は考える。ただし、この場合の「共犯」は、結果として「共犯行為」となったという意味であり、最初から日米両国が「共同謀議で行った犯罪」を意味するものでは決してないので、くれぐれも誤解のないようにしていただきたい。以下、この「日米共犯招爆論」を詳しく解説してみよう。

III「日米共犯招爆論」— 原爆無差別大量殺戮までの経緯

米国が日本に対して原爆という無差別大量破壊兵器を使用する決定にいたる経緯を知るための原資料としては、当時の陸軍長官ヘンリー・スティムソンの日記がひじょうに役に立つ。スティムソンは几帳面な人物であったようで、ほとんど日、誰と会い、どのような会議に出席し、何を議論したか、さらには議題についての自分の考えを簡ではあるが逐一記録しているため、当時の状況を知るための有効な手がかりとなる。トルーマン日記も参考にはなるが、スティムソン日記ほど、当時の状況に関する多様な情報は含んでいない。一方、裕仁と日本の政治家・軍上層部の動きについては、内大臣であった木戸幸一の日記と侍従長の藤田尚徳の回想録が重要な情報源となる。これらの日米両方の記録資料やその他の関連資料の分析から、以下のような経緯が明らかとなる。

日本側の動き
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前年4410月には米軍がフィリッピン・レイテ島に上陸、さらにレイテ沖海戦(日本側の作戦名「捷一号作戦」)で日本海軍の連合艦隊は壊滅状態となり、同年末からは米軍による本土空襲も激化。戦況に深い不安をおぼえた裕仁は、4527日から26日にかけて、平沼騏一郎、広田弘毅、近衛文麿、若槻礼次郎、牧野伸顕、岡田啓介、東條英機を次々と個別に呼んで意見を聞いている。藤田尚徳によると、裕仁は「戦争終結をどうしたらよいか、終戦の方策を持つものにはそれを」尋ねたが、「和平工作として軍部を刺戟することを警戒して、一切が隠密裏に運ばれた」とのこと。

この一連の会議で、広田は、2つの意見を述べた。1つは、ソ連との中立条約廃棄通告期限(条約廃棄には失効期限の1年前までに通告が必要)がその年の45日と迫っているため対ソ関係でなんらかの手段を講じなければならないこと。もう1つは、対英米戦については、戦闘で「大戦果」をあげ、戦争をこのまま継続すれば不利であることを敵にさとらせたうえで和平交渉に持ち込むこと、これ以外に「うつべき手はなし」という進言であった。近衛はすでに用意していた「上奏文」を裕仁に提出し、敗戦になれば「国体護持」(=天皇制維持)にとって最も危険なことは、敗戦に伴って起こる「共産革命」であると主張。近衛がこのとき想定していたのは、敗戦を機に国内で起きるであろう「軍部革新運動や新官僚運動」が共産主義運動とつながる懼れであった。しかし、近衛のこの想定より、むしろもっと現実的な危険性は、ソ連が日本に対し宣戦布告を行い、連合軍に加わって日本本土にまで軍を送りこんだ後で敗戦を迎え、日本本土の一部がソ連に占領されるようになれば、裕仁が戦犯裁判にかけられ処刑される可能性が極めて高くなることであった。裕仁がこの時この危険性をどのくらい明確に認識していたか分からないが、藤田尚徳によると「陛下も内心でその特異さに驚かされた御様子が窺われ」たとのこと。それはともかく、共産革命を避けるために「軍部の建直しを実行した上で、1日も速やかに戦争終結の方法を考えるべき」という近衛の意見に対して、裕仁は「もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思う」と述べた。つまり、裕仁は広田の進言のほうを採用し、和平工作に入る前に沖縄戦で「大戦果」をあげることを期待したのである。ちなみに、東條は、敵にも弱点があり、「皇国不滅の精神に立つなら」まだまだ勝てると、全く無知且つ無責任な発言をしている。

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3月下旬に始まった沖縄戦は、文字通り「捨て石作戦」であり、全ての沖縄住民を犠牲にする持久作戦となった。54日には、裕仁は梅津美治郎参謀総長に、今回の攻勢は是非とも成功させるようにと念押しの要求をしている。ヨーロッパでは、58日にドイツ軍が連合軍に正式降伏。しかも、5月中旬にもなると、もう沖縄で「大戦果」をあげるなどということはとうてい不可能なことが明白となる。69日には、裕仁は木戸に「時局収拾対策試案」、すなわち「和平工作案」を自分に提出させ、その提案を首相(鈴木貫太郎)、陸海軍両大臣(阿南惟幾、米内光政)、外務大臣(東郷茂徳)と協議するようにとの指示を行った。その結果、18日に最高戦争指導者会議が持たれ、22日には裕仁臨席のもとで再び最高戦争指導者会議が開かれ、いまだ「中立条約」が失効していない条約締結国であるソ連政府に仲介を依頼することを決定した(翌日23日には、沖の日本軍司令官牛島が摩文仁の洞窟で自決して沖戦闘は終結した)。しかし、周知のように対日戦を8月までに開始したいと考え計画を進めていたソ連政府は、日本政府の仲介工作依頼にまともには応えず、事実上は無視してしまった。(「仲介工作」としては、スイス国際決済銀行のスウェーデン人顧問ペール・ヤコブソンを介する動きもあったが、詳しい説明はここでは割愛する。)「和平」のために日本側が出した条件で最も重要視されていたのは、(1)天皇制維持(2)明治憲法維持の2つであったが、とりわけ天皇制維持は譲歩できない条件であった。

アメリカ側の動き
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5月初旬にドイツが降伏するや、米国政府は日本政府に対する「降伏要求書」(すなわち、7月下旬には「ポツダム宣言」と呼ばれるようになる宣言)の草案作成にとりかかっている。作成に当たったのは、国務省の知日派として知られたジョセフ・グルー(元在日本米国大使、当時は国務長官代理)とユージン・ドゥーマン(国務長官代理補佐)の2人であった。この草案宣言には、「日本の降伏を確実にするには、天皇制維持がどうしても必要であるというグルーの強い意見を反映して、「現在の王制支配である立憲君主制を認める」、すなわち「天皇制継続」という条項が明確に含まれていた。

529日:スティムソンは、グルーからの要請で、グルーと海軍長官のジェイムズ・フォレスタルならびにその2人のそれぞれの補佐官も出席する会議をもち、この草案について意見交換を行っている。このときすでにスティムソンは、「S−1」(「原爆」を意味する暗号)が完成すれば「降伏要求書」の内容も変更しなければならなくなるだろうと予想していた。しかしながら「マンハッタン計画」について何も知らされていないグルーたちの前でそのことを言うわけにはいかないため、基本的にはグルーの草案に賛成するが、最終決定にはいまだ時期尚早という意味の発言でお茶を濁らせている。

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66日:スティムソンはトルーマン大統領に原爆関連問題を協議する暫定委員会での議論の内容報告を行ったが、その折、トルーマンは、ソ連のスターリンとの交渉で米国が優勢な立場がとれるように、ポツダム会談を715日まで延期したことを知らされる(実際には、さらに2日遅れて717日から82日の間に行われた)。つまり、それまでに原爆が完成していることをトルーマンは期待していたわけだが、スティムソンは、完成はもう数日遅れるかもしれないと警告した。トルーマンが望んでいた結末は、715日までに原爆を完成させ、それを日本に対して実際に使用することで、ソ連が参戦しない前に戦争を終わらせることであった。つまり、日本の戦後処理にはソ連が一切口出しできないような状態を、新型兵器「原爆」という「切り札」を使って作り出すことであった。

スティムソンは、この日のトルーマンとの会談で、大量破壊兵器である原爆を使うことで米国がヒットラーの残虐行為を上回る悪評を世界中から受けることがないことを願っているという不安を吐露しているが、それと同時に、米軍爆撃団が今のような状態で日本全土に対する激しい空爆を続けるなら、原爆が完成する頃には破壊する攻撃目標都市がもうないのではないかという恐れも表明して、トルーマンに笑われている。スティムソンのこの言葉には、原爆無差別殺戮はなるべく避けたいという気持ちと、しかし原爆を使った形で戦争を終わらせたい(つまり換言すれば、原爆を使わない形で戦争は終わらせたくはない)という、矛盾した心の葛藤が如実に現れている。ちなみに、米陸軍航空軍司令官のヘンリー・アーノルドは、日本全域がすでに空爆で壊滅状態となっており、遅かれ早かれ降伏するであろうから、そのうえに原爆を使う必要はないという意見の持ち主であった。スティムソンの上記発言は、アーノルドの状況判断と関連しているものと思われる。

625日:前大統領の故ルーズベルトの外交顧問を務め、ソ連政府首脳部とも接触があったハリー・ホプキンスが、最近、モスクワでスターリンと会っており、その折、スターリンが88日頃には日本に対して戦争を開始すると伝えたという情報をスティムソンは受け取り、8月初旬にはソ連の参戦が確実であることを再確認している。

6月下旬になると、スティムソンは、グルーが5月に作成した「降伏要求書草案」に記した「天皇制維持の確約」条項に実質上賛成する意見へと急速に傾いてきていることが日記の記述から明らかとなる。26日には「日本向け提案プログラム」と題した「降伏要求書簡草案」(基本的にはグルー草案と同じ内容)をスティムソン自身が作成しており、日本からの降伏をなるべく早く引き出すには、原爆で壊滅的打撃を与えた直後に降伏要求を出し、その要求書には「立憲君主制を排除するものではない」という文言を加えるべきであるという考えから、次のような文面を第12条として記している。「(日本)政府が再び侵略を犯す意図がないことを世界に向けて十分な形で示すならば、現在の王朝制のもとでの立憲君主制を認めることを(降伏条件に)含む。」

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76日:スティムソンはポツダムに向けてワシントンを出発し、船と飛行機を乗り継いで、ポツダムに現地時間の15日に到着。

716日:夜7:30、史上初の原爆「トリニティ」実験が成功したというニュースの電報を受け取ったスティムソンは、すぐさま、同じくポツダムに到着していたトルーマンとジェームズ・バーンズ国務長官に報告。2人とも大喜びする。

717日朝:スティムソンはトルーマン、バーンズと原爆使用に関する協議を行い、スティムソンが原爆使用前に日本に警告声明を出す提案をする。しかし、バーンズもトルーマンもこの提案に強く反対した。スティムソンは、現実に原爆使用の可能性が高まってくると、その使用はできるなら避けたいという心境に変化してきていたことが日記の他の記述からも伺える。ちなみに、どのような理由からかよく分からないが、スティムソンとトルーマンの関係は、このポツダム会談以前からギクシャクしたものになってきており、実際のポツダム会談での米英ソ首脳会議にも国務長官バーンズはトルーマンと一緒に出席することを求められているが、スティムソンは出席を許されなかった。したがって、これ以降、原爆使用と降伏要求文章に関してスティムソンがトルーマンに直接進言する機会をもつことが少なくなってくるし、首脳会議で何が議論されているのかに関する情報を得るのも彼には困難になっている。

721日:この日の午前中にスティムソンは、「マンハッタン計画」司令官レズリー・グローブス将軍作成の「トリニティ実験」結果に関する詳細な報告書を受け取り、原爆がいかに強大な破壊力をもった兵器であるかをあらためて痛感している。同日午後、首脳会議が開かれる前に、トルーマンとバーンズの2人の前でスティムソンがこの報告書を読み上げたが、彼らはその内容を聞いて16日の夜の第一報を聞いたときと同様、大喜びした。トルーマンはこれまでのスティムソンの苦労に幾度も謝辞を述べると同時に、突然、強い自信を持った態度を示すようになったことにスティムソンは気づいている。

同日夜遅く、ジョージ・ハリソン(スティムソンの特別顧問、暫定委員会委員の一人であり、スティムソンがワシントン不在中は暫定委員会の委員長代理)からの電報をスティムソンは受け取る。その内容は、(1)原爆はすぐに使用可能の状態にある(2)以前にグローブスから要請があり、スティムソンが認可しなかった「京都に対する原爆使用」について再考して欲しい、というもの。スティムソンは、原爆の威力がどれほどものであるかを知った今は、京都攻撃はなおさら許可できないと頑固に要求を蹴っている。スティムソンが京都を攻撃目標とすることを頑なに拒否した主な理由は(1)京都が日本の伝統文化と宗教の中心地であること(2)日本人とって重要な文化財都市であるその京都を破壊すれば、日本国民の米国への憎悪心をかきたて、戦争終結後は日本をソ連の支配下においやってしまう危険性があること、であった。トルーマンも、スティムソンのこの決断を強く支持したため、京都は攻撃目標とはならなかった。***

722日:午前中、ポツダム会談に出席中の英国首相ウィンストン・チャーチルと彼の科学アドバイザーのフレディリック・チャーウエル卿(物理学者)の2人にスティムソンは会い、「トリニティ実験」報告書を見せ、1時間あまり会談。その折、チャーチルが「昨日午後の会議で、トルーマンが、突然、ソ連に対して強い態度を示すようになったことに驚いたが、この報告書を読んで、今、その理由が分かった」という内容の話をした。チャーチル自身は、「原爆カード」をソ連との交渉でなんらかの形で使うことに基本的には賛成であるが、その情報をソ連側に今伝えることには躊躇するという葛藤した心境を示した。スティムソンもソ連に原爆開発成功の情報を伝えることには、18日の段階から反対していた。

しかし、トルーマンの日記によると、トルーマン自身は18日の段階ですでに「スターリンにこのこと(原爆開発成功)を伝えると決めた。すでにスターリンは、(チャーチル)首相に、日本の天皇から電報があり和平工作を依頼してきていると告げている。スターリンは、これに対する自分の返答を私にも読んで聞かせた。満足のいく内容だ。ソ連が参戦する前に日本は降伏すると思う。マンハッタン(原爆のこと)が彼らの本土の頭上に現れた時、降伏する。適当な時期をみはからって、スターリンにこのことを告げよう」と記している。実は、717日に、トルーマンは直接スターリンから、ソ連が815日に参戦する計画であることをすでに聞いている。したがって、その前に原爆を使えば日本を降伏させることができるというトルーマンの強い自信が、この日記には現れている。もちろん、これが誤算に終わったことはあらためて説明するまでもないことだが。

723日:午前、スティムソンはトルーマンに会いに行き、実際に原爆使用可能な具体的な日程に関する情報が送られてくるのをまだ待っていると伝えた。(実は、その1時間前にバーンズがスティムソンに会いにきて、その具体的な日程について質問をしている。)その際、トルーマンは、グルーやスティムソンたちが準備したポツダム宣言草案を手元に持っており、(スティムソンによる第12条やその他の)修正を受け入れ、原爆使用の日程が決まり次第それを公表する予定だと告げた。自分が修正した第12条がそのまま使われると信じたスティムソンは、おそらく安心したに違いない。しかし、この日の午後から夜にかけて、トルーマンのこの決断を決定的に変えるなにか重要なことが起きたようである(それは、バーンズがトルーマンに、草案の第12条項を削除するよう助言したのではないか、というのが私の推測である。)

724日:午前、スティムソンはトルーマンに会い、前日夕方にハリソンが電報で知らせてきた原爆使用可能な日程(85日以降となっていた)を報告。トルーマンは、この日程にひじょうに満足し、「ポツダム宣言」をつい先ほど蒋介石に送って、共同署名するかどうか打診したところだと述べた。ところが、トルーマンが送った「ポツダム宣言」の決定版では、第12条の内容が完全に変えられており、以下のような内容になっていた。「日本国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を求める。この項目並びにすでに記載した条件が達成された場合に占領軍は撤退する。」第6条では「日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力と影響を永久に除去する」と記されており、日本の降伏を引き出すためには極めて重要と思われた3つの事項、すなわち「裕仁と天皇制の運命」、「原爆という大量破壊兵器の誕生」、「予測されるソ連の参戦」については何も言及されていなかった。スティムソンは、再度、「天皇制維持確約」がないと降伏は難しいという意見を述べたが、「蒋介石に送ってしまったので、もう遅い」という返答。そこで、この宣言文で降伏を引き出すことが難しい場合には、トルーマンが外交ルートを通して日本政府に、口頭でもよいから「天皇制維持」の保証を提供すべきだと進言したところ、トルーマンは「私が責任をもつ」と返答。

この日の午後の首脳会議の休憩時間に、トルーマンはスターリンに、「原爆」という言葉は避けながらも、「われわれは今や異常なまでに強力な破壊力を持った新兵器を所有している」と告げた。ところがスターリンは全く驚きもせず、「それは喜ばしいことだ、日本に対して有効に使われることを望む」と述べただけであった。実は、マンハッタン計画に参加していたドイツ出身の物理学者クラウス・フックスがスパイとしてソ連に機密情報を流していたので、スターリンはすでにその情報を入手していたのである(1950年になってフックスのスパイ活動が発覚し、彼は逮捕された)。なぜトルーマンは「原爆完成」の情報を、このときスターリンに暗示したのか?おそらくトルーマンは、原爆が完成して使われれば日本の降伏は間違いないので、そのことを知れば、スターリンは対日戦に加わることを諦めるのではないかという希望的観測からそのような言動をとったのではなかろうか。ところが実際は逆に、原爆完成を知ったスターリンは対日開戦の日程を早める行動をとったことはその後の歴史が示す通りである。

725日:トルーマンは自分の日記に以下のような記述を残している。「攻撃目標は純粋に軍事的なものであり、われわれは警告を発して日本に降伏して人命を救うように要求する。彼らは降伏しないと私は確信しているが、とにかくチャンスだけは与える。ヒットラーやスターリンの徒党が原爆を発見しなかったことは世界にとって確かに良いことだ。(原爆は)これまでの発見で最も恐ろしいものだと思えるが、ひじょうに有効に使うこともできる。」明らかに、この記述の内容は2つの点で矛盾しているのである。矛盾の1つは、原爆の「恐ろしい」威力を明確に認識しており、したがって原爆攻撃目標は「純粋に軍事的」なものにとどまらないことを十分に理解していたはずであること。もう1つの矛盾は、「警告を発して日本に降伏」するよう要求すると言いながら、「彼らは降伏しないと確信している」と述べていること。「警告」とは、ポツダム宣言第2条の「米国、大英帝国、中国の見事な陸海空軍は、西欧(戦線)から移動した陸軍と空軍団によって増強され、日本に最後の打を加える用意を既に整え日本軍が壊滅するまで戦う」という表現にとどまっており、すでに述べたように「原爆」については一切触れていない。では、「降伏しない」というトルーマンの確信はどこから来るのか?それは、草案の第12条から「天皇制維持確約」を削除してしまった「ポツダム宣言」は、日本政府にとっては受け入れがたいものであることを、トルーマンが明確に認識していたからである。

すなわち、受け入れがたい「無条件降伏」を要求する「ポツダム宣言」を意図的に日本政府に突きつけておき、この宣言が発表される726日から原爆使用予定日の85日までの間に、日本が降伏しないように画策したのである。その上で、85日以降、ソ連が参戦予定の15日前までの10日の間に、原爆で日本の都市を壊滅させることで降伏させる、というシナリオだった。すなわち、日本が受け入れそうもない内容の「ポツダム宣言」で、アメリカは日本の降伏引き伸ばしをはかったというのが真相なのである。

日本側の動き
1945727日午前6:30:日本政府はポツダム宣言をサンフランシスコからのラジオ放送で知る。その内容は、日本国主権の及ぶ領土の限定、平和的経済の再建、戦犯処断、自由と民主主義確立などを目的とするもので、そのために日本国民が自由に表明した意志による平和的傾向の責任ある政府の樹立を達成するまで連合国が日本を占領するというもの。これを無条件で受け入れなければ、日本軍が壊滅するまで連合軍は戦い、その結果、日本国は完全に荒廃するであろうと警告。日本政府はその日に開いた閣議で、ポツダム宣言に対してはなんらの意思表示も行わないと決定。

728日:記者会見で鈴木貫太郎首相が、ポツダム宣言は「カイロ宣言の焼き直しだと思っている。(ポツダム宣言)は何ら重大な価値あるものとは思わない。ただ黙殺するだけである。われわれは断固戦争完遂に邁進するだけである」と語った。まさに、この反応は、トルーマンやバーンズが期待していたもので、彼らが画策した通りの結果となったのである。

731日:725日の段階で、木戸が、本土決戦になった場合には「大本営が捕虜となる」危険性もあり、そのような場合には、皇統26百余年の象徴である「三種の神器」が護持できなくなって、結局は皇室も国体も護持できないので、最悪の場合は「難を凌んで和を講ずる」必要があると裕仁に進言していた。裕仁は、「ポツダム宣言黙殺」ということで、本土決戦を覚悟したのか、この話題を再び持ち出して、木戸に、「伊勢と熱田の神器は結局自分の身近に御移して御守りするのが一番よいと思ふ。而しこれを何時御移しするかは人心に与ふる影響も考へ、余程慎重を要すると思ふ。…… 信州の方へ御移することの心組みで考えてはどうかと思ふ」と述べている。つまり、日本国民全員を巻き込む本土決戦という土壇場になった場合も、裕仁にとって最も心配だったのは国民の生命の安全性ではなく、「国体」の象徴である「三種の神器」であり、それを長野県松代の山中に掘られていた地下の大本営に自分とともに移すことを考えることだったのである。すなわち、裕仁にとっては、本土決戦とは、全国民の生命を盾として、「三種の神器」=「国体」=「神聖なる自己」を守るための「最後の戦い」として考えられていたのである。

7月末〜86日:ポツダム宣言受諾拒否を行ったが、それでも政府はソ連の仲介による和平工作を諦めきれず、ソ連駐在大使・佐藤尚武の「その可能性なし」という繰り替えしの報告にもかかわらず、努力を続行せよという訓電を打ち続けるという無駄なあがきを続けた。アメリカ側は85日に予定していた最初の原爆攻撃を天候条件がよくないため、天候回復を待って6日に実行。現地テニアン時間午前2:40 エノラ・ゲイが発進し、2機の観測用B29がこれに続く。日本時間午前8:15広島上空に達し原爆投下、史上初の核兵器による無差別大量殺戮が行われた。

IV 「日米共犯招爆後論」— 「国体護持」をめぐる日米政府の駆け引き

アメリカ側の動き
広島への原爆攻撃から16時間後:ホワイトハウスはトルーマン声明を発表し、その中で「726日にポツダムで発布された最後通牒では、(原子爆弾による)完全破が日本人の身に降りかからないことになっていたのである。ところが日本の指導者たちはこの最後通牒を即座に拒した。もしいまなおわれわれの要求を飲まなければ、これまで地球上で一度も起きたことのないような破の雨が空から降るものと思ってもらわなくてはならない」と日本側に警告。「ポツダムで発布された最後通牒で、完全破が日本人の身に降りかからないことになっていた」というのは虚言とも言えるごまかしで、前述したように、実際には「降りかかるように画策した結果」であった。

日本側の動き
867日:6日午後、大本営は広島に原子爆が投下された可能性があるとの結論を出し、夕方には裕仁に「広島市全滅」と報告。翌715:30に大本営は次のような報道発表を行い、「原爆」を「新型爆弾」と発表し、「市全滅」の状態を「相当の被害」とごまかした。
一、昨八月六日広島市は敵B29機の攻により相の被害を生じたり
二、敵は右攻に新型爆を使用せるものの如きも詳細目下調中なり

88日:モスクワ時間午後5:00(日本時間午後11:00)ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄して、外相ヴャチェスラフ・モロトフが佐藤大使に宣戦布告文を手渡した。日本外務省は、数時間後にモスクワ放送でその情報を初めて知った。翌9日未明、ソ連軍が満州に侵攻して奇襲攻撃を開始。

89日:午前11:00 最高戦争指導者会議が開かれる。参加者は、鈴木貫太郎(首相)、東郷茂徳(外相)、阿南惟幾(陸相)、米内光政(海相)、梅津美治郎(陸軍参謀総長)、豊田副武(海軍軍令部総長)の6名。この会議中に、長崎への原爆攻撃があった報告が届いた。この会議では、東郷外相が「事態益々切迫して勝利の成算断ち難い今日に於いては直ちに和平に応じる必要があるので速やかにポツダム宣言を受諾することを適当と認める、又条件は日本にとって絶対必要のものにのみ限る」べきだと述べ、「絶対必要条件」として「国体護持」のみを主張。これに対して、阿南、梅津、豊田の三軍人は、「国体護持」のうえに、「占領は東京などを除き小規模とする」、「武装解除は日本が自主的に行う」、「戦争犯罪人処分も自主的に日本が行う」の3条件を加え、4条件とすることを強硬に主張。鈴木首相と米内海相はほとんど発言をしなかった。会議は午後1時まで続いたが結論は出なかった。

午後2:30からは閣議に移り、夕方5:30から1時間半の休憩をはさんで夜10時過ぎまで続いた。この閣議でも、降伏条件として1条件のみとするか4条件とするかの激論が続いたが、ここでは米内は、日本軍は「科学戦として、武力戦として、明らかに負けている……ブーゲンビル戦以来サイパン、ルソン、レイテ、硫黄島、沖縄戦皆然り、皆負けている」とこれまでの惨敗連続を認め、「会戦では負けているが戦争では負けていない。陸軍と海軍では感覚が違う」などと強弁する阿南を痛烈に批判して、東郷の1条件案を強く支持。これに対し、阿南は「国体護持」のためにこそ他の3条件も必要であって、「手足をもがれてどうして護持できるか」と反論している。したがって、最終目的はいずれにとっても「国体護持」であって、「国体護持」に必要な方法に対する考え方が違っていたとも言えよう。そのうえ、もちろん軍人たちは、「天皇の生命安全確保」と「天皇制維持」のみならず、自分たちの安全確保、すなわち「自己保身」という考えが強くあったことも間違いないであろうし、また、部下たちが動揺して反乱を起こす危険性も恐れていたということもあったであろう。いずれにせよ、ここでも結論は出なかったため、その日の深夜のうちに御前会議を開いて最終決断を行うということになった。

しかし、閣議休憩中に迫水久常内閣書記官長が鈴木首相に「かくなる上は、(天皇による)御聖断をあおぐほか途はないと思います」と進言しており、鈴木も「実は、私は早くからそう思っていて、今朝参内のとき、陛下によくお願いしてあるから、これからそのために必要な措置を考えるように」との指示をすでに与えていたのである。

当日、鈴木は最高戦争指導者会議が開かれる1時間ほど前の午前10:10に木戸を訪問しているので、このときにすでに近く「御聖断をあおぐことになるであろう」と木戸を通して裕仁に伝えたのであろう。午後1:00には近衛が来室して木戸と懇談。1時半には鈴木が再び木戸を訪れ、最高戦争指導者会議での議論の内容を報告。2:00には武官長が来室して「ソ連国境戦の状況等」を木戸に報告。2:45には高松宮が電話で「条件附にては連合軍は拒絶と見るの虞れありとの御心配にて善後策につき御意見」を述べたと木戸は記している。4:00には、戦時中に東條、小磯両内閣で外相を務めた重光葵が来室して、木戸に「四の条件を出せば決裂は必至なりとの論にて、切に善処方を希望」と述べた。このようにあわただしく人の出入りがある中で、木戸は10:55からほぼ1時間近く、3:103:254:355:1010:5010:53と、裕仁にたびたび「御文庫にて拝謁」しているので、木戸が「降伏受諾のための条件」についてかなり詳しく助言を述べたものと推測できる。したがって、この9日の夜の11時前の時点で、裕仁は、すでに、軍部を切り捨てて「国体護持」の1条件のみで降伏を受諾する決断をしていたというのが私の推測である。

8910日:9日、午後11:50、宮中の防空壕内で最高戦争指導者会議を御前会議として開催。ただし、鈴木首相が、枢密院議長である平沼騏一郎を出席させることの許可を裕仁から得ている。これには、1条件案を通させるための多数派工作という意味と、ポツダム宣言受諾を「条約締結」事項と考えるならば、枢密院の諮詢事項となるので、平沼が御前会議に出席することで、そのための手続きも経たことにして時間を節約しようとの二重の意味があったと思われる。

平沼は、「天皇の国法上の地位を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」ポツダム宣言を受諾するという東郷案を、「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に」と修正したうえで賛成するという意見を表明。鈴木首相は自分の意見を述べて採決することを避けたため、議論はこれまで同様に、3名の1条件派と3名の4条件派の対立という平行線が続いた。そこで、鈴木は10日午前2:00になって裕仁の最終決断を求めた。裕仁は、軍部は本土決戦になれば勝つ自信があると言うが、参謀総長の話では防備はほとんどできておらず、自分は心配であると言った後、次のように述べた。「本土決戦に突入したらどうなるのか。……日本民族は皆死んでしまわなければならなくなるのではなかろうかと思う。そうなったらどうしてこの日本という国を子孫に伝えることができるか。自分の任務は祖先から受け継いだこの日本を子孫に伝えることである。……勿論忠勇なる軍隊の武装解除や戦争責任者の処罰等、それらの者はみな忠誠を尽くした人々で、それを思うと実に忍び難いものがある。然し今日はその忍び難きを忍ばねばならぬ時と思う……」。こうして、「国体護持」という1条件だけを付けた上でのポツダム宣言受諾ということに決定した。

ここで注意すべきことは、「自分の任務は祖先から受け継いだこの日本を子孫に伝えることである」という裕仁の言葉である。この場合の「子孫」とは日本民族全体の「子孫」ではなく、あくまでも「自分の子孫」、「皇室の子孫」を指している。すなわち、「日本民族」が「皆死んで」しまうと、国体そのものが存立しなくなる。よって「本土決戦は『国体護持』にとって危険であるので、これは避けろ」という論理である。裕仁の思考の中心問題は、かくして、あくまでも「国体護持」であって、「日本民族」一人一の生命の安全性を確保するために本土決戦のような無謀な作戦は停止せよと主張したのではないのである。裕仁のこのような極めて自己中心的な思考(日本国民は天皇としての自分のために存在するという考え)は、815日に彼が発表した「終戦の詔勅」にも明瞭な形で現れているが、これについてはすでに拙論「敗戦70周年を迎えるにあたって戦争責任の本質問題を考える -」(当ブログ 421日掲載)で論じたので、これを参照していただきたい。
10日午前3:00 閣議を開き、「御前会議」での決定を追認。しかし、この閣議で、阿南陸相が、「天皇大権存続」が受け入れられない場合には戦争を継続という確認をとっている。その後、平沼提案にあった通り、ポツダム宣言を「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に受諾す」という条件の文面を含んだ受諾書を、スイス政府仲介で連合国側に送るため打電した。
アメリカ側の動き
810日:スティムソンのこの日の日記は長文に及んでおり、日本のポツダム宣言「条件付き受諾」をめぐっての米国政府の対応に関する動きがかなり詳しく記録されている。日記はまず、スティムソン自身やグルーが心配した通り、「天皇制維持」という問題が再び蒸し返されることは分かりきっていたにもかかわらず、トルーマンとバーンズがポツダム宣言草案から削除してしまったことへのスティムソン自身の批判で始まっている。この日の朝、トルーマン大統領、バーンズ国務長官、スティムソン陸軍長官、ジェイムズ・フォレスタル海軍長官、ウィリアム・リーヒ陸海軍最高司令官・大統領付参謀長ならびに数人の大統領補佐官たちで、ラジオ放送報道による日本のポツダム宣言「条件付き受諾」に関して、対応策を議論(この時点ではまだ、日本政府からの正式な文書がスイス政府からワシントンには届いていなかった)。バーンズは、日本政府のこの条件を受け入れるべきかどうか、考えあぐんでいる状態であった。

スティムソンは、以下のような2つの意見を述べた。(1)アジア太平洋全域に残留している膨大な数の日本軍将兵に即時に武器を捨て戦闘停止の命令を出せるのは天皇だけである。これ以上、硫黄島や沖縄のような激戦で、多くの米軍兵士を死傷させるわけにはいかない。したがって、ここは、天皇をうまく利用することが賢明。(2)(日本政府への我々の回答が決まるまでは)一応、現在を休戦状態ととらえ、人道的態度をとって日本への空爆を今すぐ停止すること。最初の意見については、おそらく会議出席者の多くが賛成したと思われるが、「空爆即時停止」に関しては、いまだ日本からは正式な降伏声明を受け取ってはおらず、したがって戦争状態にあるということで、ほとんどが反対した。(事実、米軍は、810日も熊本、宮崎、酒田、11日には久留米、佐賀、松山、13日には長野、松本、上田、大月を空爆した。14日には、秋田、高崎、熊谷、小田原、岩国が空爆され、大阪には150機のB-29から700個もの1トン爆弾が落とされ、800名ほどが犠牲になっている。つまり、後述するように、日本が形式的な「無条件降伏」を正式に受諾する14日まで、米軍による焼夷弾や1トン爆弾を使っての空爆は続いたのであり、したがって、その意味でも「原爆が戦争を終わらせた」という一般的な解釈は真実ではない。)とにかく、降伏条件については、正式な日本政府からの文書が届いてから再検討するということで、会議を一旦終えることにした。

自分の事務所に戻ったスティムソンは部下たちと様々な協議を行っているが、ソ連軍が満州に侵攻している今、ソ連軍が日本本土に到達する前に日本政府の正式降伏を引き出し、米軍が日本本土に占領軍としてできるだけ早く上陸する必要があるという重要な意見を会議で自分が述べなかったことに気がついた。つまり、正式降伏をできるだけ早急に日本から引き出すためには、日本側の要求を受け入れるべきという自分の意見をソ連軍侵攻との関連で再度強調する必要性を感じ、そこで、バーンズに電話を入れ、そうした意見を伝えた。その際、バーンズが日本政府宛への回答草案を書いたので、それを見せたいと説明。スティムソンは自分の補佐官をバーンズの事務所に送り、その草案を取りに行かせている。草案は5項目から成っていたが、第1項は「降伏の時より天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の他の必要と認むる措置を執る連合軍司令官の制限の下に置かるるものとす」となっていた。さらに「最終的の日本国の政府の形態は『ポツダム』宣言に遵ひ日本国国民の自由に表明する意思により決定せらるるべきものとす」という文章が第4項として入れられていた。すなわち、形としては日本政府からの要求条件を受け入れるのではなく、連合国から出す条件であるという形式をとり、間接的にではあるが、占領軍の下での「天皇制維持」を約束し、その将来については、日本国民が決めるということにしたわけである。スティムソンも、この案を「ひじょうに賢明で、注意深い文言となっており、日本政府が受け入れるチャンスが大きい」と歓迎している。

同日の何時であるかはスティムソン日記では明記されていないが、おそらく午後であろう。日本政府からの正式な「条件付き受諾書」がスイス政府を介してワシントンに届いた後、再びホワイトハウスで閣議が開かれており、前述のバーンズ回答案がそのまま採用され、英中露から同意を得た後で、日本政府に通知することが決定された。

日本側の動き
812日:午前045 サンフランシスコ米軍放送局がラジオ放送として流した「バーンズ回答」の内容を外務省ラジオ室が傍受(正式の回答文を日本政府がスイスの加瀬俊一公使経由で受け取ったのは同日18:00過ぎ)。10:30 に東郷外相が鈴木首相を訪問して回答を受諾することを確認した上で、11:00に裕仁に会い、裕仁も「先方の回答の通りでいいと思う」と受諾することを承諾。ところが、「国体護持」に関する文面がきわめてあいまいで、これでは「国体護持」が本当に可能かどうか分からないという軍首脳部や平沼枢密院議長などの否定的な意見のため、またもや閣議で1条件派と4条件派の間での論争が蒸し返され、裕仁自身もその回答文面に自信がなくなり動揺したのか、「よく研究するように」と態度を変えている。そんな状態で、1日中、紛糾が続いた。

813日:午前2:10 スウェーデンの岡本公使が緊急電報で、「国体護持」約束に関しては英国もソ連も反対で、とくにソ連からは強硬な反対があったが、「天皇の地位を認めざれば日本軍隊を有効に統御するものもなく連合国は之が始末になお犠牲を要求せらるべしとの米側意見が大勢を制して回答文の決定を見たるものにて回答文は妥協の結果なるも米側の外交的勝利たり」というニュースがヨーロッパの新聞で報じられているという報告を送ってきた。すなわち、日本政府から出された条件の受け入れについては、スティムソンの意見が大きく反映したことが理解できる。この報告がすぐさま鈴木首相と木戸にも手渡されているので、裕仁にも伝えられたことは間違いないであろう。おそらく裕仁はこの情報に安堵したに違いない。しかしこの日も、「国体護持」については閣議や最高戦争指導者会議が何回も開かれ、議論が続いたため、結論はでないまま散会となっている。

814日:「国体護持」は間違いないと確信しポツダム宣言受諾を決めた裕仁は、御前会議で最終決定を伝えることにしたが、その前に、軍の不満を抑え反乱の危険性を削ぐため、午前10:20、元帥会議を招集し、杉山元(第1総軍司令官)畑俊六(第2総軍司令官)、永野修身(元軍令部総長)の3名の元帥を呼び出し、「意見聴取」を行った。杉山、永野の両名はあくまでも本土決戦を主張、畑は「受諾決定ならばしかたがないが、交渉で少なくとも10師団は親衛隊として残すよう努力して欲しい」との趣旨の発言を行った。これに対し裕仁は、「皇室の安泰は敵側に於いて確約しあり。天皇を武装解除の為に利用するという敵の言論は放送なれば信ずべからず、…… 忠良なる軍隊を武装解除し又嘗ての忠臣を罰するが如きは忍び難き処なるも国を救ふ為には致し方なし。武装解除、保障占領等細かきことは何れ休戦条約にて決定さるべきものにして、今より直ちに細かき条件を出すことは却って状況を益々不利に導き成立せざることなるべし」と述べている。つまり、自分の身の安全をほぼ確信しながら、「国を守るためには、お前たちのような軍人を犠牲にすることはやむおえない」と一方で述べつつ、他方では、「占領政策の細かいことは未だ分からないので、不利益になるような行動はつつしめ」となだめているのである。しかも「無条件降伏」を承諾しようというのに、「休戦条約」などという、ありうるはずもない「条約」があたかもこれから出てくるかのような虚言まで交えてごまかしている。さらに、最後には「心事は明治天皇が三国干渉により遼東半島を還附せられたる時と同様なり。実に忍び難き処なるも深く考えたる末決定したるものなれば之が実行に元帥も協力せよ」と述べ、今は日清戦争の時の自分の祖父・睦仁と同じような「臥薪嘗胆」の気持ちで、いつか敵に報復する機会もあろうから我慢しろと言っている。ここには、ほんの数日前に広島・長崎両市で多くの子供を含む無数の市民を死なせたこと、自分が開戦の最終許可を与えた戦争で310万人の日本国民を死なせ、推定2千万人をはるかに超える数の犠牲者をアジア太平洋で出したことに対する責任意識が完全に欠落している。「国民全ての命は天皇である自分のためにある」と教え育てられてきた人間に、そのような責任感が養われようもないのがまさに「無責任体制の天皇制」の本質的特徴であることを考えれば、少しも驚くべきことではないのである。

元帥会議でまず軍の長老を押さえ込んでおいて、同日午前10:50 から全閣僚、陸軍参謀総長、海軍軍令部総長、枢密院議長と4人の幹事が出席する最後の御前会議を開いた。冒頭で鈴木首相が前日の最高戦争指導者会議と閣議での議論の内容を報告。続いて、首相は、ポツダム宣言受諾に反対である陸海軍両総長と阿南陸相に一応意見を述べさせておいて、最後に裕仁の「聖断」を求めた。この御前会議も、9:50 から木戸と鈴木が50分かけてすでに打ち合わせた通りの段取りに沿って進められたものと思われる。「聖断」の内容は、基本的に、元帥会議で裕仁が述べたものとほぼ同様の内容である。やはり軍の不満がひじょうに気になっていたようで、再び「陸海軍将兵にはさらに動揺も大であろう。この気持ちをなだめることは相当困難なことであろうが、どうか私の心持ちをよく理解して陸海軍大臣はともに努力し、よく治るようにして貰いたい。必要あらば自分が親しく説き論しもかまわない」とまで言っている。ここには「国体」を実質上支えてきたのは強大な日本帝国陸海軍であったことの明確な認識があり、降伏要求受諾にあたって自分が大元帥である日本帝国陸海軍に背かれたら「国体護持」は全く不可能となるという裕仁の深い危機感がまざまざと現れている。具体的には、裕仁は陸海軍両大臣にクーデター防止対策を命じているのであって、そのために必要なら自分が直接説得してもよいとまでの異常な覚悟を示しているのである。この御前会議は1時間ほどで終わり、かくしてポツダム宣言の受諾が正式に決定されたのである。

V 結論 — 「天皇制原爆民主主義」成立の批判的分析の必要性

以上、「原爆使用」と「天皇制維持」をめぐる日米両国の半年間ほどの複雑な動きをできるだけ簡潔に追跡解明してみた。これによって明らかになることは、すでに19452月の段階で敗戦に疑問の余地がない状況になっていたにもかかわらず、裕仁は降伏を延ばし、沖縄戦で無数の沖縄市民と日米両軍将兵の命を犠牲にした。にもかかわらず、「国体護持」、すなわち自分の身の安全確保の保証を求めて降伏の時期をさらに遅らせたゆえに、広島・長崎での原爆無差別大量殺戮という悲劇を招いた。89日の後もなお「国体護持」の確約を連合国側、とりわけアメリカから得ようとポツダム宣言正式受諾を引き伸ばしたゆえに、814日まで断続して米軍が行った日本各地への空爆で多くの市民が犠牲となった。したがって、裕仁ならびに裕仁を最後まで支えた当時の日本軍指導層と政府首脳に原爆殺戮(ならびにその後の空爆殺戮)を誘引した重大な責任があったことは否定しがたい。しかしながら、同時に、ソ連が対日戦を開始する前に原爆を必ず使用できるよう、日本の降伏を遅らせるように画策をはかった米国政府、とりわけトルーマン大統領とバーンズ国務長官にも重大な「招爆画策責任」がある。もちろん彼ら2名と、スティムソンをはじめ「マンハッタン計画」に関連したその他の多くの米政府ならびに軍関係者には、核兵器製造・使用での無差別大量虐殺という「人道に対する罪」に対する最も重大な責任があることは言うまでもないことである。

裕仁の「招爆責任」は、しかしながらその原点をたどれば、もともとは1931918日の満州事変を皮切りに始めた中国への侵略戦争と、その継続として1941128日の真珠湾攻撃から始まる無謀な太平洋戦争にまで戦争を拡大してしまった、日本帝国陸海軍大元帥としての「侵略戦争開始・拡大責任」に起因する。そうした裕仁の重大な戦争責任を問うどころか、「国体護持」確約で彼の個人的な「身の安全」と「天皇制維持」をはかることにより、自分たちの原爆無差別殺戮責任と「招爆画策責任」、ならびに焼夷弾と通常爆弾による無差別空爆殺戮に対する責任を、実質的には「帳消し」にしてしまったアメリカ大統領トルーマンと米軍政府・軍指導者層の責任も極めて重大である。

この「帳消し」は、19465月から始まった東京裁判にも如実に表れていることは、あらためて述べるまでもないであろう。東京裁判では、裕仁の戦争責任も、日本軍による中国諸都市(とりわけ重慶)への度重なる無差別空爆という戦争犯罪もまったく取り上げられなかった。日本軍による無差別空爆をとりあげれば、原爆攻撃をはじめとする米国の日本に対する激しい無差別空爆が法廷で批難の対象となるため、「帳消し」されてしまったのである。

こうして日米両国の戦争責任がうやむやにされたまま19459月から日本占領が始まった。その占領下で、原爆は戦争終結を早め「多数の民間人の生命を救うため」に必要不可欠であったという神話がすぐに作り上げられ、同時に原爆使用によってこそ日本軍国主義ファシズムに対する「自由と民主主義の勝利」が最終的には獲得されたのだというアメリカの主張が、アメリカ国内のみならず、世界中で、そして皮肉なことには被害当事国の日本で最も広く受け入れられ、一般化されてしまった。かくして原爆無差別大量虐殺の犯罪性が全く追及されなかったため、「正義は力なり」という「民主主義国家」米国の本来の主張は、核兵器という大量破壊兵器を使ったことによって、実際には「力(=核兵器)は正義なり」とサカサマになっていたこと、すなわち「民主主義理念」そのものがサカサマになっていたことを暴露する機会が失われてしまった。

その結果、日本国民は、そのような「サカサマ民主主義国家」である米国の原爆によってもたらされた「戦後民主主義」を歓迎するという極めて矛盾した状況、つまり我々日本人が嬉々として受け入れた「民主主義」はいわば「原爆民主主義」と呼ぶべき「根深い矛盾」を最初から深く内包した摩訶不思議な「民主主義」であったことを洞察できなかった。それのみか、その「戦後の新しい民主主義」の根幹となるべき「新しい平和憲法」が、重大な戦争責任を不問にしたまま、法制的には「民主化」されたが、イデオロギーとしては元の形態を引きずったままの天皇制国家の元首である裕仁によって発布されるというこれまた「根深い矛盾」を「矛盾」とも感じないで、これも日本国民は喜んで受け入れた。したがって、いわゆる「戦後民主主義」は、そうした2つの大きな矛盾を最初から抱え込む、本当は「天皇制原爆民主主義」と称すべき日本独特の政治社会体制であったし、現在もあり続けているのであり、それゆえにこそ、一方では裕仁に象徴される日本の侵略戦争責任という加害責任も、原爆に象徴される自分たちの戦争被害の加害者である米国の責任も真剣には問わないという無責任体制を、大多数の国民が不思議とも思わず、70年も維持してきたのである。

このように、日米両国が犯した由々しい戦争犯罪行為の責任のどちらもがこれまで真剣に問われなかった事実は、今も我々が暮らしている「天皇制原爆民主主義」という政治社会体制と実際には深く且つ密接に関連しているのである。特定秘密保護法導入、集団的自衛権行使容認、安保法制=戦争法導入、沖縄辺野古基地強行建設、「河野談話」や「村山談話」の実質的否定、原発再稼働など、安倍政権が矢継ぎ早に出している反民主主義的で人権無視の政策は、実はこの70年にわたって蓄積されてきたこのような日米両国の戦争責任問題と密接に絡んだ様々な矛盾が、今まざまざと露呈しているのだと言える。

したがって、今、日本市民が直面しているさまざまな問題は、時代錯誤的で誇大妄想的な観念に囚われた安倍晋三という思想貧困な個人と彼をとりまく権力におもねる政治屋たちだけが起こしている問題ではなく、そうした連中に権力乱用を許している「天皇制原爆民主主義」の問題なのであり、この日本独自の体制をどうすれば根本から改革できるのかという、「歴史克服」の問題である。そのためには、「天皇制原爆民主主義」が成立した歴史過程を、もう一度、詳細且つ批判的に分析し、見直してみる必要がある。

— 完 —

(注)
* 私のこの主張については、昨年2月に公表した「オバマ大統領宛書簡」を読んでいただきたい。
** 同上
*** 京都が原爆攻撃目標都市リストから外されたことについては、日本在住のアメリカ人アーサー・ビナードが全く出鱈目と思える主張をしている。ビナードは、「日本の歴史的建造物を破することを避けるために原子爆を京都に落とさなかったというのは大間違いで、実は、京都も投下象候補にがっていた。落とされなかったのは、京都が盆地だったからで、盆地の京都に原爆が落ちると、その後放射能に汚染された空はそのままそこにとどまることになり、その被害の大きさは広島や長崎とは比べものにならないほどに長く深いものになる。」よって放射能の人体に与える影響が計り知れないものであることが世間に知られること」をアメリカは恐れたので、京都を攻撃目標とはしなかったと主張しているとのこと。http://ghome.exblog.jp/19867826/
こんな主張を裏付けるアメリカの原資料が存在するなら、見てみたい。

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