2018年4月13日金曜日

15年戦争史概観(III)


- 戦争責任問題を考えるための予備知識 - 
(3)日中全面戦争
*華北分離工作から「盧溝橋事件」へ
*日中全面戦争への拡大
*南京虐殺・軍性奴隷・毒ガス兵器
*日中戦争の泥沼化 

華北分離工作から「盧溝橋事件」へ
  さて、もう一度、中国における日本軍の動きに目を戻してみよう。すでに述べたように、1933年5月末の塘沽停戦協定で、日本軍は一旦華北への侵略を停止したが、1935年になると再び、「華北分離工作」と呼ぶ策動をめぐらせはじめた。「華北分離工作」とは、華北5省(河北、山西、山東、チャハル、綏遠<下の地図参照>)を中国から分離し、準満州国化するという計画であった。華北地域の鉄・石炭・綿花などの資源を獲得し開発することで、日満経済ブロックの自給自足性を高めようというのがその目的であった。 
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1935年6月には、支那駐屯軍(軍司令官・梅津美治郎少将)は、抗日事件の取り締まりや排日運動の禁止を口実に、河北省やチャハル省からの国民党軍の撤退や日本軍飛行場建設を要求。さらに11月には、親日の中国人政治家を利用して、塘沽停戦協定での非武装地帯に「冀東防共自治委員会」(「冀」は河北省の別称)なるものを発足させ、12月にこれを「冀東防共自治政府」と改称させた。この冀東政権ができると、日本の資本が急速にこの非武装地帯に進出。さらに冀東政権は、関東軍の指導の下、国民政府が定める関税率より極端に低い輸入税を設定したため、日本商品がこの地域になだれ込んだ。関東軍が裏で操る麻薬の密造・密売も盛んに行われ、天津では麻薬入りキャンディーまで売られた。さらに35年12月には、関東軍の傀儡部隊である徳王が率いる内蒙軍をチャハル省東部に侵攻させ、翌36年2月には関東軍の指導の下にチャハル省スニトに「蒙古軍政府」という傀儡政権を樹立させた。

  こうした日本側の露骨な動きが中国人の間での抗日運動をさらに激化させ、北平(現在の北京)、上海、青島をはじめ華北全土に抗日・日貨排斥運動が広がった。中国共産党は、1935年8月1日、「8・1宣言」を発表し、国民党に対して内戦をただちに中止して、抗日救国のために民族統一戦線を結成することを呼びかけた。関東軍によって満州から追い出され、国民党軍の指揮下に入っていた張学良が率いる軍隊は、延安の共産党軍と闘っていたが、1936年12月になって、共産党提案の抗日民族統一戦線を実現させるために、突然クーデターを起こし、西安を訪れていた蒋介石を監禁。中国共産党は周恩来を西安に派遣して調停にあたらせ、蒋介石に内戦停止と抗日連携を受け入れさせた。実際に抗日民族統一戦線での「国共合作」が打ち立てられたのは、後述するいわゆる「盧溝橋事件」の2ヶ月あまり後、つまり日中戦争が全面化した1937年9月になってからであった。しかし、結局は、日本の「華北分離工作」は、中国民族全体を敵に回すという状況を作ってしまったのであるが、その重要性を真に理解する軍指導者が、軍中央部にも現地陸軍にもいなかったのである。

  1937年7月7日の夜10時40分ごろ、北平(北京)郊外の永定河に架けられている盧溝橋付近で、日中両軍の間で小さな衝突が起きた。義和団事件(1900年に中国で起きた反キリスト教、排外主義の民衆蜂起。この蜂起に押されて清朝政府が英米仏露日など8カ国に宣戦布告したが敗北)をきっかけに、1901年以来、日本軍は北平郊外に駐屯軍を置いていた。1936年の増兵にともなって、この支那駐屯軍である歩兵第1連隊第3大隊の第8中隊(清水節朗大尉が率いる135名)が、この夜、盧溝橋近くの荒蕪地で演習中に、中国軍が駐屯している龍王廟の方角から数発の銃声が響いた。清水中隊長が兵の点呼をとったところ、2等兵・志村菊次郎がいなかった。すぐにこの報告を清水から受けた第3大隊長・一木清直少佐は、即刻、連隊長・牟田口廉也大佐に連絡して部隊出動の許可を得た。ところが、行方不明であった志村は、点呼集合の20分後には無事に帰隊していたのである(志村が暗闇で迷って中国軍に近づきすぎたため、威嚇射撃を受けたのではないかと推測されるが、真相は分からない)。したがって、とにかく、この時点で問題は解決していたのであった。

  ところが一木大隊長は、「実弾射撃をやれば日本軍は演習をやめて逃げて行くという観念を彼ら[中国側]に与えるのは遺憾だから、これはどうしても厳重に交渉しなければならぬ……要するに日本軍の面目さへ立てばよいので……軍の威信上奮起した」と後日述べている(強調:引用者)。その結果、午前3時25分ごろ再び龍王廟方面から銃声が響いたのをきっかけに、夜明けを待って攻撃を開始。盧溝橋付近では、8日から10日まで中日両軍の間で戦闘が続いた。しかし、支那駐屯軍参謀長・橋本群少将、北平特務機関長・松井太九郎大佐、北平駐在武官補佐官・今井武雄少佐たちが事件収拾のために奔走し、11日夜8時になって、中国側と停戦協定が成立した。この協定内容は、(1)中国第29軍代表の日本軍に対する遺憾の意の表明と責任者処分、(2)盧溝橋城・龍王廟からの中国軍の撤退、(3)抗日各種団体の取り締まり、という中国側の一方的な譲歩であった。
日中全面戦争への拡大
  こうして現地では駐屯軍が停戦協定を成立させるために努力していたにもかかわらず、7月10日、「在留日本人保護のため」という(安倍政権の自衛隊派遣正当化にも使われている)理由から、陸軍中央は関東軍2個師団、朝鮮軍1個師団、内地3個師団の華北への派兵を決定。11日午後になって、日本政府(「盧溝橋事件」の1ヶ月前に成立した近衛文麿内閣)は、「事件が支那側の計画的武力抗日であることは疑いの余地はない。本日の閣議において重大決意をなし、北支那派兵に関し政府として採るべき所要の処置をなすことに決した」、との政府声明を発表した。11日夜に現地での停戦が成立したにもかかわらず、日本政府はこの決定を撤回することはせず、しかも「柳条湖事件」と同じように、この侵略武力行為をまたもや「戦争」とは呼ばず、「北支那事変」と命名して誤魔化した(戦争が拡大した9月2日には「支那事変」と改称)。その最大の理由は、中国に「宣戦布告」すれば、アメリカが中立法の発動によって軍需関連物資の日本への輸出を停止する恐れがあることであった。

  なぜ、停戦成立にもかかわらず、陸軍は戦争を拡大していったのか。実は当時、陸軍内部では、近い将来の対ソ戦を考えてここでは日中戦争不拡大の道をとるべきだと主張する、参謀本部第1作戦部長・石原莞爾を中心とする「不拡大派」と、この機会をとらえて中国軍に致命的な打撃を与えることで、一挙に華北支配を実現させようと考えていた作戦課長・武藤章や関東軍参謀長・東条英機らの「拡大派」との間に対立があった。いろいろな経緯から、結局は、防共・資源・市場の確保のために華北を制圧しようという「拡大派」の主張が勝って、近衛内閣の決定となったのである。「柳条湖事件」では、現地軍が謀略によって戦争を拡大したのに対して、一応、政府は不拡大方針を当初はとった。ところが、「盧溝橋事件」ではそれとは全く逆に、現地駐屯軍が停戦協定を成立させたにもかかわらず、近衛内閣は、事件が発生するや「重大決意」と称して、陸軍本部の決定どおりに早々と華北派兵を決定し、日本全体を「挙国一致」の戦争協力体制にまで押し上げた。「満州事変」から「支那事変」までの6年間に、いかに日本の政治がますます軍の思うままに動かされるようになったかを、このことは明示している。

  7月28日、日本軍は北平・天津に総攻撃を開始、30日までに両市を占領。(29日には親日の冀東政権の保安隊が反乱をおこし、日本のアヘン・麻薬密売に憤激した中国人民も加わって日本人居留民223名を惨殺する事件が起きている。)8月13日には、海軍も加わって上海への攻撃を開始。14日、海軍航空隊は台湾基地から杭州などを渡洋爆撃(海を越えての爆撃)し、翌15日には長崎県大村基地から首都南京への爆撃を開始。関東軍は、参謀長・東条英機中将の指揮下、支那駐屯軍に増派された第5師団(本部は広島)と連携してチャハル省内に侵攻し、8月27日には張家口を占領。かくして、日本軍は内蒙古、華北、華中の3地域への同時侵攻を推進し、9月初旬から1937年末にかけて各占領地に「自治政権」と称する傀儡政権を樹立した。華北では、1937年末までに河北・山西・山東の3省の主要都市と鉄道を支配下におさめ、12月14日に、華北占領全域の傀儡政権として「中華民国臨時政府」を北平に設立した。一方、国民政府側は、8月14日に「抗日自衛」を宣言し、翌15日には全国総動員令を出して、蒋介石が軍総司令官に就任。22日には、中国共産党軍の紅軍が国民政府軍第八路軍に改編され、前述したように、9月23日に国民党軍と共産党軍の「国共合作」が正式に成立して、日中間の戦争は文字通り全面戦争化した。

   日本軍が最も苦戦したのは上海であった。上海派遣軍は中国軍の猛烈な抵抗に直面したため、9月11日になって、3師団を増援軍として派遣したが、それでも苦戦を強いられ死傷者が続出。そこで11月5日にはさらに3師団から成る第10軍を杭州湾に上陸させ、11月13日にはさらに1師団を、上海の北西75キロ地点の揚子江下流に上陸させた。11月9日なって、蒋介石は上海からの撤退命令を出し、日本軍は11日にようやく上海を占領。日本側の戦死傷者数は4万人を超えた。

南京虐殺・軍性奴隷・毒ガス兵器
  上海を占領するや中支那方面軍司令官・松井石根大将は、参謀本部が定めた任務(上海付近の敵の掃滅)と作戦境界線を無視して、上海派遣軍と第10軍の諸部隊に南京攻略への先陣争いをさせた。3ヶ月も苦戦を強いられて多くの戦友を失い、疲労しきっていた上に、今度は南京に向けての進撃を命じられた兵たちはヤケクソな精神不満状態になった。しかも、急進撃のために、戦闘部隊に兵站部隊(前線の戦闘部隊に物資や食糧を供給する部隊)が追いつけなかったために、食糧は「現地にて徴発、自活」せよとの命令。「現地徴発」とは、早く言えば地元住民から「略奪」するという日本軍独自の用語であった。かくして、南京進撃の途上のいたるところで、日本軍将兵たちは捕虜・敗残兵を殺害し、民家に押し入って略奪。抵抗する市民には放火・暴行・虐殺で応酬した。(日本軍の「現地徴発(または現地調達)」はアジア太平洋戦争中に各地で行われたが、これがそれに伴う戦争犯罪行為<とくに市民の殺害と強姦>を引き起こし、それがさらに反日感情と抗日運動を高めるという悪循環を生み出したことが重大な特徴である。)

  12月13日に南京を占領するや、ここでも虐殺・略奪・強姦・放火などを行い、その後2ヶ月にわたりこうした残虐行為をくりひろげた。市街地をはじめ一般住民居住区が戦闘地域となる侵略戦争では兵士と民間人の区別が困難となるため、民間人の大量虐殺が起きやすくなるが、南京はその典型的なケースであった。逃げおくれた中国兵が軍服を脱ぎ捨てて、難民である一般市民の中に逃げこんだ。日本軍は「更衣兵(衣服を変えたゲリラ)狩り」と称して、一般市民の中からゲリラらしき者を選んで次々と処刑していったため、多くの一般市民も巻き添えとなった。ゲリラといえども、武器を捨てて抵抗する意志のない人間を法的手続きもなしに殺害することも戦争犯罪行為である。南京での中国人死亡者推定数は4万人から30万人と様々な説があるが、おそらく、どんなに少なく見積もっても十数万の中国人が日本軍による虐殺の犠牲になったと考えられる。

  このことは、南京に侵攻した高級軍人の一人、第16師団長・中島今朝吾中将の日記の中の以下のような記述からも明らかである。「大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたれ共……之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当たらず、一案としては百二百に分割したる後適当のか処に誘きて処理する予定なり」。捕虜はとらず敵兵は全て殺害するという方針で、100〜200名の敵兵を一まとめにして殺戮し、屍体を「処理」=埋めるか河に流してしまうという方法をとると説明しているのである。第16師団は、このやり方で、12月13日の1日だけで約2万4千人の捕虜を「片付」けたと、中島は臆面もなく記している。こうした「片付」け=集団処刑が翌年の1月まで南京市内外のあちこちで行われた。日本軍は中国ゲリラ兵を「匪賊(集団で略奪・殺人・強盗などを行う賊)」と呼んだが、日本兵こそ「匪賊」そのものであった。

  南京を占領した日本軍将兵が多くの女性を強姦・輪姦したことも、否定しがたい事実である。戦後の東京裁判には、中国人犠牲者の証言のみならず、日本軍が南京を占領した当時、南京市内に居住していた米英などの国からの宣教師や一般市民が実際に見聞した、日本軍兵士たちの性暴力の蛮行に関するおぞましい証言が提出された。昼夜を問わずあちこちで強姦・輪姦が行われ、拒む女性を銃剣で殺傷したケースが詳細に語られている。また、他の外国人居留者と協力して南京安全区国際委員会を立ち上げ、その委員長となり、中国人民間人を少しでも保護しようと努力したドイツ人商社員のジョン・ラーベも、日本軍兵士の蛮行について日記に詳細に記している。

  こうした大量強姦・輪姦が中国人の間に強烈な反日意識を生み出したため、これ以降、日本軍は性暴力犯罪を防止するという目的から、日本軍が侵攻する先々で軍専用の「慰安所」を設置するという方針をとることになった。「慰安所」は、1932年1月の「第1次上海事件」の時からすでに海軍が設置していたが、陸軍の「慰安所」が急増するのは、この南京占領の後からである。しかし、「慰安所」を設置しても強姦・輪姦を防止することは全くできなかった。

  「慰安所」で働かされた女性の中には日本人女性もいたが、その大半は当時植民地であった朝鮮と台湾の若い女性たちで、その多くが「看護婦見習い」とか「給仕」といった仕事で雇うと騙されて連れられてきた人たちであった。中国各地でも、日本軍は地元の女性を強制的に「慰安婦」にしていった。女性たちは、一旦「慰安所」に入れられたならば、長期間、兵士たちに性的奉仕を強制されたことから、彼女たちもまた強姦の犠牲者だったと言える。彼女たちの証言を読んだり聞いたりして分かることは、その実態は「軍性奴隷」と称すべき由々しい人権侵害であり、したがって女性たちは「人道に対する罪」の犠牲者であったことである。この「日本軍性奴隷制度」は、中国だけではなく、1941年12月の対米英蘭開戦の後には、日本軍が侵攻したアジア太平洋全域にわたって導入され、多くの東南アジア人やオランダ人女性も犠牲者となった。
  
  日中戦争が全面化すると、日本軍は大量の毒ガス兵器も使うようになった。使用された毒ガスはイペリット(びらん性ガス)、青酸ガス、ホスゲン(窒息性ガス)などであったが、それらは主に広島県大久野島で大量生産され、中国に輸送された。満州では、関東軍化学部が731(細菌戦)部隊と連携して毒ガス兵器の人体実験や訓練を行った。日本軍は、毒ガスを1937年から中国各地の実戦で使用し始め、いわゆる「ゲリラ掃討作戦」で423回以上使用し、3万3千人以上の兵士・民間人を殺傷。中国軍との正規戦では少なくとも1,668回使用して、4万7千人以上を殺傷した(うち死亡者約6千人)。日本軍は、敗戦前後に、保有していた大量の毒ガス弾を中国各地の十数都市で遺棄した。例えば、吉林省敦化市のハルバ嶺地区には、推定30万から40万発の日本軍の毒ガス弾が遺棄されたと言われている。戦後、それらの都市では、漏れ出した毒ガスで多くの住民が被害を受け、1947〜69年に行われた毒ガス弾回収作業では、作業中の事故で300人ほどが死亡したとも言われている。

  中国で日本軍が行ったもう一つの残虐行為は「三光作戦」と呼ばれるもので、「三光」とは、中国語で、殺光(殺し尽くす)、焼光(焼き尽くす)、搶光(奪い尽くす)を意味している。1940年8月から10月にかけて、中国共産党軍は、華北で八路軍40万人を動員して総力をあげて日本軍を攻撃する「百団大戦」と呼ぶ作戦を展開して、日本軍に大きな打撃を与えた。これに対する報復として、日本軍は同年9月から、共産党の抗日根拠地を燼滅させる作戦、「晋中作戦」(「晋」は山西省を指す)を開始。この作戦では、(1)「敵性あり」と考えられる住民中15歳以上60歳までの男子は殺傷、(2)敵が隠匿または集積している武器弾薬や糧秣(食糧のこと)は押収または焼却、(3)「敵性部落」は焼却破壊する、の3つが命令とされた。つまり、「敵性あり」とみなされた者は殺戮し、所有物資は奪い、住居は燃やすことで、「敵をして将来生存するに能わざるに至らしむ」ことが目的とされたのである。この「三光作戦」展開中にも強姦•輪姦が頻発し、大量の毒ガス兵器も使用された。残虐なこの「三光作戦」は、「第2期晋中作戦(40年10〜11月)」と「三西西方作戦(40年12月〜41年1月)」でも行われ、41年8月から43年7月にかけては、北支那方面軍(司令官・岡村寧次大将)がチャハル省、河北省、河南省、山東省の各地で展開した「燼滅・粛清作戦」でも実施された。

  さらに日本軍は、中国共産党軍の活動を封じ込めるために、住民を強制移住させて無人区にし、幅6メートル・深さ4メートルの遮断壕や、幅1メートル・高さ2メートルの石垣で作った封鎖線を張りめぐらした。これらの遮断壕や封鎖線の長さは、総合すると1万1,860キロにも及んだと言われている。「三光作戦」と遮断壕・封鎖線設置作戦によって、1941年から42年の間に、華北地域の共産党解放区の面積は6分の1縮小し、人口も4千万人から2千5百万人にまで激減した。

日中戦争の泥沼化 
  1938年1月14日、国民政府はドイツを介して、日本側が提唱する「和平交渉」の日本側の要求の詳細を知りたいと日本側にアプローチ。翌15日の大本営政府連絡会議(1937年11月に設置された、大本営<戦時中に設置される陸海軍の最高統帥機関>と政府との間の協議のための会議。出席者は首相、外務大臣、陸軍大臣、参謀総長、海軍大臣、軍令部総長。幹事役として内閣書記官長、陸海軍の軍務局長が同席)で、参謀本部側は、将来のソ連との戦争準備を考慮して、この時点では早期講和を目指したほうが良いと考え、国民政府と交渉を続けることを提案。ところが、南京陥落で強気になっていた近衛首相は、交渉打ち切りを強硬に主張して参謀本部側の提案を拒否してしまった。これに対して、参謀本部側は、参謀総長・閑院宮載仁を通して、直接、裕仁に交渉継続希望を伝えようとしたが、裕仁は、一旦決まったものを変更できないと、閑院宮に会うことを拒否して、近衛の交渉打ち切り決断を支持したのであった。近衛は16日、「帝国政府は爾後国民政府を対手(あいて)とせず」という声明を発表した。こうして日本は中国との長期戦の泥沼に、自ら足を踏み込んでいくことになった。興味深いのは、通常、戦時中の政策決定では、往々にして軍部が国務側(政治家)を従属させていくのであるが、陸軍内部での(「拡大派」対「不拡大派」の)対立もいまだ残っており、首相が公家華族の名門のメンバーという威厳もあってか、このときは近衛首相のほうが軍部を圧倒した形となった。

  北平(北京)、上海、南京を占領した日本軍は、1938年5月19日に徐州を占領。8月末からは、中支那派遣軍の9個師団(約30万人という大兵力)を動員して武漢攻略作戦を開始。炎天下のマラリアと、首都を重慶に移して抗戦を続けていた国民党軍に苦しめられ、10月26日なってようやく漢口を占領し、武漢地区を制圧した。同時に日本軍は、中国軍への主要な補給路線である香港ルートの遮断を目指して広東作戦も展開し、10月21日に広東も占領。こうして中国の多くの重要都市と鉄道を占領はしたものの、 広大な中国全域、とりわけ内陸部の農村部を制圧することはとうていできず、これが日本の軍事動員力の限界であった。1939年までに、中国への日本軍派兵数は85万人という数に膨れ上がっていた。海外にこれだけ多くの兵員を駐屯させ、武器・弾薬などの必要物資を供給するには膨大な予算が必要となり、1938年度の軍事予算は60億円ほど(国家財政の77%近く)までに膨張してしまった。

  一方、厳格な規律と高い政治的理念を持った共産党の軍隊である八路軍や新四軍は、抗日戦での活躍で民衆からの支持が強まり、中国全土で4千万人もの民衆を支配下におくまで勢力を拡大していた。こうした中国共産党に対して強い不安を感じていた、国民党内部の反共派である国民党副総裁・汪兆銘らは、「対日早期妥協」を主張しはじめた。手詰まり状態になった近衛は、この汪兆銘を蒋介石政権から分裂させ国民党政府を弱体化させた上で、汪の新政権と講和しようと画策。1938年11月3日、「国民政府を対手とせず」という前言を取り消して、「東亜新秩序声明」なるものを発表し、蒋介石と絶縁した汪と交渉を始めた。ところがこの「和平建議」で、日本側は中国側に賠償を求めただけではなく、撤兵時期についても何も確約しなかった。こんな理不尽な日本の要求を受け入れる汪兆銘に同調してまで蒋介石に反抗しようという動きは国民党の中に起こらず、結局、日本政府の工作は失敗した。

  日本が中国で戦火を拡大したことは、英米などの列強諸国の中国での権益を侵すことになったため、英米は国民党政権を物的・人的の両面での支援を開始。日本にとっては仮想敵国であったソ連もこの支援に参加。そのような国民党の首都である重慶に、日本軍は無差別爆撃を1938年12月から1943年8月まで断続的に218回も繰り返し、合計2万人近い数の市民を殺害した。列強諸国からの援助があるため国民党政権は屈服しないと考えた日本側は、1938年後半からは支援ルートの遮断にも力を入れるようになり、1939年にはそのルートの拠点である海南島・南寧・汕頭を占領し、1940年には北部仏印(フランス領インドシナ<現在のベトナム・ラオス・カンボジア>)にまで侵攻。日本のこの武力南進がさらに英米との対立を深めることになり、結局、1941年12月の対米英蘭との開戦へと日本を追い込むことになった。

  その後も日本は、中国各地での共産党軍ならびに国民党軍との戦闘のために、1945年8月の敗戦まで、70万人から100万人という数の兵力を中国に常駐させなければならなかったのである。15年という長期にわたる戦争で、日本軍の犠牲になった中国人の数は1千万人を超えると言われている。

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